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第113回 師輔の死

天徳3(959)年。中納言師尹(40歳:師輔の同母弟)の自慢の娘・宣耀殿の女御芳子は、目尻の下がった可愛い美貌で、古今集1100首を全部暗記するほどの才媛で、更に長い髪が誇張でしょうが、牛車に乗っても先端がまた母屋にあったという事です。村上天皇の覚えもめでたく天皇はよく芳子の殿舎に行っていました。安子は皇后とはいえ、気が気ではありません。何と壁の穴から覗き見ると天皇と芳子がたわむれています。かっとなった安子は土器のかけらを穴から投げつけたという事です。(『大鏡』)
この時はさすがに村上天皇も立腹しましたが、普段は安子を信頼し、頼っていました。

2月25日、菅原道真の命日に、右大臣師輔(52歳)は北野社の神殿を大増築し、そして秘かにある祈りを捧げました。
それは道真の天敵である藤原時平の娘を妻にしている異母兄・左大臣実頼(60歳)の家系に祟りがある様にという事です。師輔が表面明るい磊落ながら、実は陰険で腹黒だったという由縁です。ただ実頼の母は道真の姪なんですけどね。
3月には安子はまた皇子守平親王(後の円融天皇)も産みました。3皇子4皇女を産んでいます。

この師輔の呪いともいうべき願いは逆に出ました。翌年に入って師輔の方が体調を崩したのです。
3月30日には村上天皇も臨御する後世にも有名な「天徳内裏歌合」が行われました。左方の大将と判者には実頼が務め、右方の大将には当然師輔がなる予定でしたが、仕方なく師輔の信頼する女婿・大納言源高明(47歳)が務めました。
この歌合を紫式部は絵合に変えて『源氏物語』に描いています。
歌合は予定より遅れて日暮れから始まり、終わったのは翌日の早朝という事です。そしてこの歌合では何と言っても、最後の対戦、二十番の恋で左方・壬生忠見の「恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか」と右方・平兼盛の「しのぶれど色に出でにけりわが恋は 物や思ふと人の問ふまで」が判定が付かず、引き分けにしようと思ったら村上天皇が最後なので決着をつけよという事で、実頼と補佐の高明は困ってしまいました。その時、村上天皇が小声で「しのぶれど~」と詠むのが聞えたので右方の兼盛の歌の勝ちとなり、合計では左方の10章5敗5分けという事でした。
後で管弦の宴がありましたが、敗れた忠見は住まいの摂津に帰り、悔しくて食事を喉を通らず悶死したという説もありますが、長生きしたという説もあります。

盛況だった歌合の様子を聞きながら、5月4日、師輔は九条邸で53歳で亡くなりました。外孫の東宮憲平親王(11歳)の状態が普通でないのを案じながらの死でした。あと10年生きていたら、摂政関白太政大臣も夢ではなかったでしょう。後の道長に匹敵する栄華も手にしていた筈でした。

師輔にはたくさんいた男子の中から最初の正室腹である、伊尹・兼通・兼家の三兄弟がそれぞれやり手でした。そして師輔が信頼していた女婿源高明と対立していく事になっていきます。(続く)




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