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第70回 道真、讃岐守に。

元慶9(885)年正月19日。源定省(19歳:後の宇多天皇)の妻・胤子は長男源維城(これき:後の醍醐天皇)を産みました。
太政大臣基経は異母妹で定省の養母である淑子に苦言を呈しました。
「定省はやがて帝となって、まろの姫を妃に迎えねばならぬ。あんまり妻を作らせぬよう頼みますぞ」
定省は他に橘広相の娘も妻としていました。やがて男子も生まれるかも知れません。淑子も反論します。
「定省とて若い男子。抑える事などできませんわ」
基経は苦虫を噛み潰した表情をします。今、ただ人の源氏に太政大臣の姫と結婚させる訳にはいきません。もどかしい思いがします。

2月に仁和(にんな)と改元されました。
翌仁和2年正月2日。基経の長男時平(16歳)が仁寿殿にて元服します。加冠役は最高の身分の光孝天皇がしてくれました。基経にとっては名誉な事です。
そしてまもない正月16日、文章(もんじょう)博士の菅原道真(42歳)を讃岐守に任ずるという宣旨が出されます。
道真は仰天します。学問の家に育ち、京から外へなど出た事もありません。このまま日本一の学者として人生を全うするものだと思っていました。
それに当時の讃岐は海を越えた四国。これは2年前に、光孝天皇が「太政大臣の職掌はいかに」と基経を讃えようとしたのに、道真が「職掌はありませぬ」と杓子定規に答えて天皇の面子を潰した意趣返しでした。

基経は自分の学問所で送別会を開いてくれました。基経は道真から公的な文書を書いて貰ったり学問を教えて貰ったりしていたのです。
酒が盃に入り、道真は挨拶をする事になりました。ところが第一声を発しようとして不覚にも道真は号泣してしまったのです。
よほど今回の四国行きが悔しかったのだと周囲は思いました。
その時、隅から当然時平もこの様子を眺めていました。道真と時平。宿命のライバルは15年後、今度は道真の大宰府左遷という事態になるのでした。(続く)

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