見出し画像

第123回 高松方明子の死

最近、人が亡くなる記事ばかりで恐縮します!
修子内親王が亡くなった永承4(1049)年3月に、後冷泉天皇の女御・歓子(教通の娘:29歳)は待望の皇子を産みますが、その日の内に亡くなり、喜んでいた教通らは悲しみます。

そして月食があったという7月、高松方の明子が推定85歳(道長より1つ上?)で亡くなります。ライバルの鷹司方倫子は86歳で健在で、90歳まで生きます。
何かにつけて鷹司方より一段低い扱いを受けていると感じている(実際そうだったのですが)高松方としては総領でもある母親が先に亡くなってまた特に能信などは口惜しい思いをいたでしょう。

明子は、光源氏の有力モデルの左大臣・源高明の末娘で、5歳頃、父が無実の罪で大宰府に流されます。(安和の変)
そしてしばらく叔父に養育されていたのですが、その叔父も亡くなり、東三条院詮子(来年、大河ドラマで吉田羊さんが演じられるそうですね)が妹分として引き取りました。詮子の父・兼家は高明追い落としに一役買っていたのでその贖罪でもあるのでしょうか?
明子は美貌でいろんな公卿が狙っていたようですが、詮子はお気に入りの弟・道長が正室倫子が懐妊中に結婚話をまとめてしまいます。(道長23歳、明子24歳)そして自らの東三条院の南に高松殿を新造し、二人の愛の巣としたのでした。それで高松方と言われます。

倫子と明子はもちろん陰ながら張り合い、倫子は2男4女、明子は4男2女を産みます。しかし常に出世は倫子の子らの方が上。娘も倫子の方は全て天皇が東宮の后妃となっているのに対して、明子の方は小一条院と、ただ人の源師房と差がついています。
ですが、『大鏡』では頼通と頼宗が幼い頃、詮子の四十の賀で舞いを舞った時、頼宗の方が上手で詮子から褒美の布を貰いそれを肩にかけて一周して喝采を浴びました。倫子は口惜しくて、頼通の舞いの師匠をクビにしたという話があります。
『源氏物語』でも夕霧の正妻雲居の雁と、側室・藤典侍はそれぞれ多産で、典侍の娘の方が美貌であったと香子(紫式部)は意図的に描いたのでしょうか?
とにかく一つの時代が終わったという感じでした。

ちなみにその年の11月の内裏の歌合せで能因法師が、
「嵐吹く三室の山のもみじ葉は 竜田の川の錦なりけり」(百人一首69番)
の歌を詠んでいます。(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?