第130回 二人の賢子の死
香子(紫式部)の娘賢子は長命だった様です。そして18歳で大宮彰子の元で女房となり、若い時には何人もの公卿と浮き名を流しました。しかし35歳の時に高階成章(なりあき)と結婚してからは落ち着いたようで、後冷泉天皇の乳母も務め、夫が大宰の大弐だった事から「大弐の三位」と呼ばれる様になりました。母同様、彰子の信頼は厚く、後冷泉天皇が身分の低い女房を懐妊させた時は、素早くその生まれた男児を長男為家の子として決着させたりしました。
永保2(1082)年頃、その賢子は84歳で亡くなったのではないかと言われています。8年前に大宮彰子は亡くなっています。その頃、宮中を去ったのかも知れません。長男為家(45歳)は白河天皇の覚えもよく、やがて院の近臣として羽振りをきかせます。世渡りのうまい事は、祖父宣孝譲り?
たくさんの孫に囲まれ、為家の長男為章(24歳)、それから実は後冷泉天皇の落胤為行(24歳)も順調に成長していました。思い残す事はなかったでしょう。
その2年後ですが、時めいていた中宮賢子は28歳で突然病に襲われます。2皇子3皇女を白河天皇との間に儲け、最愛の后でした。
普通体調が悪くなると、実家に帰すのですが、天皇は許さず、そして亡くなると、中宮の亡骸を何日も抱いて飲食も取らず嘆き暮らしたと言われています。
近臣が「こんな先例はありませぬ」と諫めると、天皇は「朕を以て先例とせよ」といい気丈な所を見せています。
やがて白河天皇は決意します。遺された体の弱い善仁(たるひと)親王(6歳)を必ず帝にすると。(続く)
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