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第90回 二条の后高子の死

時平が亡くなる前年の延喜8(908)年6月、若い妻を奪われた伯父大納言国経が無念のまま81歳で亡くなりました。その妻は時平との間に敦忠などを産んでいます。国経との間には少将滋幹(しげもと)がいて小説にもなっています。(谷崎潤一郎氏)
その同じ年、忠平は実は新しい妻を貰っていました。姉が源能有との間に産んだ昭子という、いわば姪に当る女性です。妻二人とも源氏というのは道長に似ていますね。
その昭子が男児を産みました。後に師輔となる、道長の直接の先祖です。忠平は最初の妻との間に、ちょうど道真が左遷される前の年、900年に長男実頼を儲けていたので8歳違いの異母兄弟という事になります。実頼と師輔はやがて宮中でも張り合うようになっていきます。

そして延喜10(910)年3月24日、ついに前皇太后高子が69歳で亡くなります。廃后にされたままでした。「二条の后」として復位が認められるのはその33年後の天慶6(943)年です。ちょうどその前年に三十三回忌があり、復位の動きになったのでしょう。
母を愛する陽成上皇(43歳)が葬儀、四十九日をやりました。
業平の次男滋春や紀貫之あたりから「業平集」が献上されていた事でしょうし、陽成上皇は、仕えていた業平と母の逃避行などを懐かしく読んだ事でしょうか?
「古今集・春の歌」に高子の歌が収録されています。
「雪のうちに春は来にけり 鶯(うぐいす)のこほれる涙 今やとくらむー雪は積もっているけれど春が来た。鶯の凍れる涙も今はとけているだろう」
先入観も入っていますが、高貴で上品な歌だと思います。

さて翌年9月、忠平は妻の兄・参議源当時(まさとき:44歳)に検非違使別当を依頼します。検非違使というのは現代でいえば警察庁です。その長官に義兄をつけたというのは、忠平の周到な計画の第一歩でした。(続く)

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