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第132回 応徳4年の出来事(1)

父後三条院の遺命に背いてまで我が子堀河天皇の即位を成し遂げた白河上皇は翌年応徳4(1087:4月に寛治と改元)年、ゆったりとした気持ちでした。
2月に、院の近臣から献上された鳥羽殿を更に改修して快適なものとしました。この投稿で知ったのですが、鳥羽殿は鴨川と桂川が合流する港町のような所で風光明媚な場所の様です。政治の喧騒を忘れて白河上皇はここに逗留したのでしょう。

小一条院の孫で行尊(ぎょうそん:33歳)という名僧がいます。10歳の時に父が亡くなり仏門に入れられ、あの頼豪(白河上皇の第一皇子誕生を祈って成功したのに褒美がなく皇子が呪い殺されたという伝説がある僧)に密教を習い、大峰山などを修行し、修行僧としても名高かった様です。能筆でもあったと言われます。
姉基子が後三条天皇の女御となって実仁、輔仁を産み、実仁は亡くなりましたが、輔仁は健在であり、白河上皇から疎まれていた様なので、不安な基子から呼ばれ、行尊も宮中に出入りしていた様です。百人一首の『もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もない』はこの年の春に詠まれたものといわれます。孤独に耐えて修行する自分の姿を、人知れぬ山桜に重ね合わせたというものです。

行尊の甥の輔仁親王は6月、15歳で元服しました。父後三条院の血を引いて英明であり、白河上皇としては息子のライバルとして嫉視した事でしょう。

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