第165回 御子(みこ)姫君
後白河法皇から、高倉上皇が崩御したら自分の妃になってほしいという事を清盛は、徳子に伝えました。すると普段は感情をあらわさない徳子は泣いて拒みました。
「嫌でございます。どうしてもというなら私は出家します」
徳子の強い拒絶に清盛は無理強いをしませんでした。後世では、これは平家側から言いだした事とされていますが、好色な法皇の方から言われたのを忖度したのでしょう。しかしここで徳子が犠牲となって後白河法皇のものになれば、法皇が平家追討までする事はなかったかも知れませんが、歴史に「もし」はありませんよね。
かつて近衛天皇の皇后だった多子は、その美貌に憧れていた二条天皇の后となって「二代の后」と言われました。
しかし困った清盛に、盛国が提案しました。
「厳島にいる姫を呼び寄せてはいかがですか。もう十八で美しい姫に成長しているとか・・・」
「そうじゃな、あの子に頼もう」
かつて清盛が厳島神社との内侍との間に儲けた姫でした。余り会っていなかったがとにかく京に呼び寄せました。
「済まぬのう。そなたの父の清盛じゃ。父のために役に立っておくれ」
清盛は御子姫君という娘に頭を下げて、治承5(1181)年正月25日、後白河法皇のもとに献上しました。
しかし不機嫌な法皇は一度召しただけで二度と呼ばず、更に嫌がらせの様にわざとお付きの女房を召し、(よく鳥羽上皇が待賢門院璋子のお付きの女房を次々と孕ませました)嘆く御子姫君はまもなく若い一生を終えたという事でした。(『源平盛衰記』)(続く)
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