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第22回 行平の行動

業平の7つ上に異母兄行平がいます。母は分かりませんが大宰府に、父阿保親王が流されていた時に生まれたと思われます。
父が密告者の汚名を着て亡くなった「承和の変」以後も順調に昇進したと言われます。感情に流される業平と違って理性的で割り切りもあったのでしょうか。

しかし行平には一つの伝説があります。
文徳天皇が即位した頃ですから、851年頃、34歳の行平は文徳天皇のお気に入りの女官と事を起こして、須磨に流謫の身となったというのです。そして歌を詠みました。
「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に 藻塩たれつつしのぶと答へよ」-たまたま私の事を聞いてくれる人があったなら、須磨の浜辺で塩でも作りながらしょんぼりとしているよと答えておくれー
現地の女性、松風・村雨姉妹という恋人もいたと言われます。

この伝説を後の紫式部が知って『源氏物語』の須磨の帖にも応用したと言うことです。

しかしその4年後の正月、行平は因幡守に任じられ、また『百人一首』に載っている歌を詠みます。
「たち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り来む」-別れて因幡国へ去ったとしても、因幡の稲羽山の峰に生えている松ではないが、あなたが待っていると聞いたならば、すぐに帰って来ようー

送別会で都の人々と別れを惜しんだ歌ですが、そこに業平も居たでしょうか?この後も行平は昇進をじわりと重ねて中納言までいきますが、業平とは付かず離れず、時々色々な場面ででてきます。

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