第55回 藤原(高倉)範季ー男気のある人
範季は、1130年、藤原氏でもあまりぱっとしない南家の子として生まれます。10歳の時に父が亡くなり、兄範兼に養われます。範季が36歳の時に兄が亡くなると、今度はその子供たちを引き取り養います。お返しでしょうか。
その中に範子や兼子(鎌倉殿の13人で、最近シルビア・グラブさんが演じている)もいました。
夫人は何人かいましたが、平教盛の娘教子と長く暮らし、正妻扱いだったようです。教子の生年が分からないのですが、父教盛が1928年の生まれですからそれこそ親子ほどの違いだったと思います。
範季がその特異性を発揮するのは、1159年の平治の乱で敗れた源義朝の六男範頼を引き取って養育した事からでした。
誰もがその時、落ち目の源氏の子を引き取って得があろうかと思っていたのに、同情からか何かの理由で手を差し伸べたのです。縁とすれば義朝の正室が範季の遠縁だったという事くらいしか見つかりませんが。
範季は九条兼実の家司を務めていて、兼実は後白河法皇と平家に反感を持っていましたが、範季は両者とも仲が良く、清盛の義弟能円に養女範子を娶せ、1171年には娘在子が生まれています。(後に後鳥羽天皇の後宮に入り土御門天皇を産む)
範季は1176年から78年までの2年間、鎮守府将軍として陸奥に行っています。その時、藤原秀衡の元に身を寄せていた源義経を見たのでしょうか?秀衡とも懇意だったようです。
1180年、高倉上皇に第4皇子尊成親王が生まれると、範季一家は乳母となりました。そして1183年平家が都落ちする時、能円が妻範子に尊成親王も連れて逃げる事を指示した時、止めたのが範季と言われます。
その通り、尊成親王は4歳にして後鳥羽天皇となるのでした。
平家が都落ちして平家の娘を妻にしている者は冷たく離縁して捨てたりしているのに、範季は逆に教子への愛を深め、1185年には男子が産まれます。
その1185年11月、壇ノ浦の栄光から一転、頼朝から追われる身となった義経と接触し、範季は自邸に匿います。先妻の息子は義経追討軍に加わっているというのに。何か弱い者を見てはいられないという性格だったのでしょうか?
義経は結局奥州へ逃れますが、範季は罰として解官されています。つまりクビです。
1195年、範子の娘在子が後鳥羽天皇の第一皇子を産み、そのお蔭で翌年範季は10年ぶりに宮中に復帰します。
範季と教子の間の娘、重子も女房として宮中に出仕しており、後鳥羽天皇の愛を受けて皇子守成親王(後の順徳天皇)を産みます。9つ上の在子より、2つ下の重子の方に愛が移ったのを範季は複雑な気持ちで見ていたでしょう。在子は次回述べますが、別の男との密通疑惑まで起こってしまいます。
1200年4月、後鳥羽上皇の寵愛深い4歳の守成親王は皇太弟となります。
もう71歳の範季は孫の皇子の成長を楽しみにしていた事でしょう。いつからかは分かりませんが、高倉家とも号しています。
1201年、範季はまた信じられない事をやらかします。頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏の生き残りで亡き秀衡の四男高衡が邸に逃げ込んで来たのをまた匿ったのです。亡き秀衡との親交ですが、ばれたらどうなるかを余り考えない人だったのですかね。
結局高衡は捕まり殺され、範季は嘆息したと言われます。この件でお咎めはなかった様です。
1205年5月、範季は、利発になっていく9歳の孫・皇太弟守平親王の即位を夢見ながら妻教子らに看取られて76年の生涯を終えます。
何か男気のある、弱者に手を差し伸べる人生でした。評伝では「反骨的な人」とも評されています。権力者に背く選択をし続けたアナーキーとも言われています。不思議な魅力ですね!
その16年後、承久の乱が起こり、順徳上皇は佐渡に流され、教子との男子・範茂は37歳で処刑されます。しかし範茂の子範継は助命され高倉家を守りました。(拙著『平家物語誕生』に詳述)
その後高倉家は一時中絶しましたが、藪家として復活し、更に何と昭和になって高倉家と改名(戻す)したそうです。