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第104回 実頼と師輔の拮抗

4月24日に天暦(てんりゃく)と改元された947年、その2日後、祝う様に、師輔(40歳)は右大臣に昇進しました。これで関白太政大臣が忠平(68歳)、左大臣が実頼(48歳)と父子三人で大臣職を独占した事になります。「まんが日本史」(現在CSで放映中)の平安篇で、先頭を行く忠平の後ろに二人いかつい(笑)感じの公卿が従っているのでたぶんその兄弟だと思います。背は弟の師輔の方が高かったと言われます。

その2カ月前に師輔は娘で村上天皇(22歳)女御の安子(21歳)主催で四十の賀をして貰っており、二重の喜びだったでしょう。
3月には、前年譲位したばかりの朱雀上皇(25歳)が延暦寺で、平定された承平・天慶の乱の官軍・賊軍の決定に立ち会ったという記録があります。朱雀上皇としては自分の治世の時に起こった反乱であり、最後まで見届けたいという思いがあったのでしょうか?それから譲位を公開して復位の祈祷も行っていたとも言われます。

さて、実頼と師輔は異母兄弟ですが、どちらも能力に優れ、実頼は勤勉、師輔は豪放磊落という感じですが、実頼は朱雀天皇の時に長女慶子を入内させましたが皇子誕生はならず、今度は村上天皇の女御に次女述子(15歳)を入内させました。
それからその頃、頭角を現していた権中納言・源高明(たかあきら:34歳:醍醐天皇の皇子で光源氏の最有力モデル)を気に入り、実頼は娘の一人を妻としていましたが、5月21日に娘は亡くなってしまいます。その後に入れたかその前からかは分かりませんが、師輔は三の君を高明の妻とし、婿として優遇しています。それこそ『源氏物語』で左大臣が光源氏を女婿として大切にした様に。

6月23日、中納言・源清蔭(64歳)は父・陽成上皇の八十の賀を主宰します。陽成上皇は少し衰えたものの、なお元気であり、忠平にとっては不気味な存在でした。(父基経が無理やり退位させたので)

小野宮流と号した実頼一家には不幸が続きます。10月5日、安子に先んじて懐妊して喜んでいた述子は疱瘡に罹患して死産をし、述子も短い生涯を終えます。
更に11月17日には長男の敦敏が36歳で亡くなります。述子も敦敏も母親は時平の娘だったので、また道真怨霊のせいかと噂が立ちます。
敦敏の長男で後に能書家で有名になる佐理はまだ数え4歳でした。(続く)

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