第93回 重仁親王の若き死。
異母妹滋子が後白河上皇の皇子・憲仁親王を産んだ10日後の応保元(1161)年9月13日、平清盛(44歳)は中納言に昇進しました。後白河上皇の推挙です。
平家を後ろ盾にする異母弟憲仁親王を警戒する二条天皇は、9月15日、突如として平教盛、時忠を憲仁親王東宮擁立の疑いで流罪としました。清盛は中立の立場を取り静観しました。
翌応保2年1月28日、保元の乱で敗れ讃岐に流されていた崇徳上皇(当時は讃岐の院と呼ばれていました)の皇子重仁親王は足を患っており、23歳の若さで亡くなりました。子はいませんでした。
讃岐でそれを聞いた崇徳上皇は号泣しました。
「ああ、重仁。あんなに賢い子であったのに・・・朕の子でさえなければ、もっと幸せな人生であったろうに・・・」
傍で慰める重仁親王の生母・兵衛佐もただ上皇の手を取って過酷な運命に涙するしかありませんでした。
それからの崇徳上皇は、完全に伸びる髪も梳(す)かず切らず、爪も伸ばし放題で、血走った恐ろしい形相をするようになりました。
「夜叉か天狗か・・・」
すべてに絶望した崇徳上皇は、ただただ世を怨むしかありませんでした。
重仁親王の死にかつて乳母であった、池の禅尼も手を合せるしかありませんでした。保元の乱で崇徳上皇方にはつかぬようにと清盛に指示したのは池の禅尼だったからです。
崇徳上皇とはお互いに白河法皇の落胤だと思っている清盛も複雑な気持ちでした。(続く)