第132回 後白河法皇の逆襲
治承2(1178)年12月24日、9日前の外孫の皇子の東宮立坊で喜ぶ清盛は大盤振る舞いで、かつて病床にあり、復帰した75歳の源頼政に従三位を叙してあげました。不遇な源氏を宥(なだ)める意味もありました。
頼政は泣いて感謝しました、源氏一族にとって今までは四位が最高で、頼政の三位はそれこど源氏史上初の快挙でした。しかし後年、頼政は息子が清盛の子、宗盛から屈辱を受けた事から平家に挙兵し亡くなります。
翌年2月28日、高倉天皇と、徳子に仕えていた女房殖子(たねこ)の間に皇子が生まれました。殖子は、清盛の次女が嫁いでいる坊門信隆の先妻の娘でした。
「帝は女色が好きであるのう」清盛は時子に言いました。
「そう申しますな。政(まつりごと)はすべて殿がやっておられるし、はけ口は音曲かそれしかございませぬ」
「そうじゃな」清盛は時子の助言に笑いました。
第二皇子である守貞親王は、すぐに知盛夫妻が育てる事になりました。やがて壇ノ浦まで共に行き、帰京します。
殖子はやがて第四皇子も産みました。後の後鳥羽天皇です。
その頃、清盛には心配な事がありました。長男重盛と摂関家に嫁いだ四女の盛子が病に臥していたのです。
6月17日、盛子は24歳の若さで亡くなりました。盛子は基実の未亡人で平家と摂関家家司の話し合いで莫大な財産を相続していました。
すると鹿ケ谷の変以来、平家に一物ある後白河法皇は、盛子の所領を全て院領として取り上げてしまったのです。清盛は唖然としました。(続く)