第79回 大納言典侍(2)
1184年3月、捕えられた重衡は京で法然より受戒を受け、自害する事はしなくなります。そして梶原景時が護送役となって鎌倉へ連れていかれます。
鎌倉での待遇は良好で、千手の前という琵琶のうまい侍女をつけられ、千手の前も重衡を思慕します。(重衡の死後すぐに亡くなります)
1185年3月、壇ノ浦の戦いで平家は敗北。安徳天皇の乳母であった大納言典侍は三種の神器の一つ、八咫の鑑(やたのかがみ)を持って入水しようとしますが、源氏の兵に取り押さえられます。(その後入水して助けられたという説もあり)
入水して助けられた建礼門院徳子などと共に輔子(大納言典侍)は帰京します。男たちが処刑される中、輔子は放免となります。
1年前に生き別れした重衡がまだ生きていると知り、「露の命」でも重衡に逢いたいという女の執念が実を結びます。
恐らくは処刑されるなら、東大寺大仏を焼き、重衡を憎悪している南都であろうと聡明な輔子は思い、京から奈良に向かう日野に姉が住んでいたのでそこに行き、機会を待ちます。
日野は一度法界寺の祭りに行った事がありますが、確かに京山科の南にある所でした。
平家が滅ぶと、三種の神器の交換要員のための人質であった重衡に用はなく、身柄を渡せとうるさい南都に頼朝は重衡を送ります。途中、重衡の同母兄宗盛も鎌倉へ護送され、頼朝は勝者とし対面していますが、重衡と宗盛の対面は恐らくなかったでしょう。
南都への護送役は源頼兼で、あの源頼政の次男です。頼政とその子孫もよく歴史上に出てきますね。
そして誰が教えたのか、日野で輔子がじっと待っているという事を伝え、二人は今生の別れができます。
2005年の大河「義経」では輔子を戸田菜穂さん、重衡を細川茂樹さんが熱演していました。
屋敷に来た重衡に、輔子は「夢がうつつか」と泣きます。
そして中へ招き入れますが、『平家物語』では半身を御簾の中に入れたとあります。草鞋を脱いで上がってはいけなかったのでしょうか?「立ったまま会う」という文章も物語ではあります。
重衡は額に垂れた自らの髪をひと房噛み切って、形見として渡します。
輔子は受け取り、そして用意してあった新しい白の狩衣と着替えさせ、古い装束をまた形見とします。そして二人は最後の和歌を詠みあいます。
重衡「せきあへぬ涙のかかる唐ころも のちの形見に脱ぎぞかへぬるーこらえようもない涙がかかるこの衣を亡き後までの形見としてこうして着替え、残していきます」
輔子「脱ぎかふる衣もいまはなにかせん 今日をかぎりの形見と思へばーぬぎ替えた衣も、今となっては何の役にも立ちません。この衣も今日が最後のあなたの形見と思いますと」
重衡は、外で待たしている武士を気遣って行こうとします。輔子は「いかにやいかに、しばし」と袖にすがりますが、重衡は出ていきます。
嵐圭史さん朗読の『平家物語』で、重衡の「先へ!」という言葉が悲痛な感じを与えました。
輔子は屋敷の中で泣き狂います。
重衡は結局、木津川のほとりで処刑されます。29歳でした。
私は取材のため、一度JR木津駅で降り、重衡が最期に食したという柿の木を見に行ったり、墓がある安福寺を訪ねたりしました。社も近くに建っていて丁重に葬っています。亡くなると怨霊を怖れていたのでしょうか?
輔子が処刑の場にいたのかは分かりませんが、中間(ちゅうげん)に首のない遺体を取りに行って貰います。そして荼毘にふします。
重衡の首は般若寺の門に額を釘で打ちつけられます。栄華を誇った平家の御曹司の最期としては何とも言えませんが、その首もやがて重源という高僧から輔子は貰い受け荼毘に付し、骨を高野山に祀ります。
その後、輔子は出家し、建礼門院徳子が住まう大原の寂光院に行きました。
翌年4月、後白河法皇が大原まで行幸した時に、徳子と一緒に山菜を集めに行っていたのは輔子です。法皇の隙あらばという態度を輔子はどう見ていたでしょうか?
徳子の死を、阿波の内侍と共に輔子は看取ったといいます。徳子の没年も諸説ありますが、60代後半と言われますから、輔子も長く重衡の菩提を弔ったのでしょう。