第39回 後白河法皇(5)藤原信頼との事
後白河天皇は既定通り在位3年で譲位し、皇太子の守仁親王は二条天皇となります。これを進めたのは、後白河上皇の乳母夫・信西で信西は僧籍なので表向きの官位は望めず、上皇の側近として更に権力を強めようとしたのでしょう。
しかしここにライバルが現れます。後白河が天皇になった時、23歳で仕えた藤原信頼です。元は中の関白家隆家の末裔です。
二人は何色関係にあったと言われます。日本では明治になるまで男色は奇異とは思われていませんでした。キリスト教が本格的に入ってきてから白眼視されたのです。例えば後世、織田信長と森蘭丸、足利義満と世阿弥(えっ!夢が壊れた?)保元の乱の藤原頼長はせっせと自らの日記「台記」に関係した経緯を書いています。
信頼はどんどん出世し、1157年には蔵人頭(天皇の秘書官)、58年には中納言に昇進します。きっと美貌だったのでしょう。だから大河『平清盛』のキャスティングには?と思いましたが。
信西は怒ります。「なぜあんな小人を近づけられるのか!?」
「才なく学なく能なく」とまた酷評します。しかし閨閥には抜け目なく、異母兄基成は奥州に行き、娘は奥州秀衡の継室となって泰衡を産みます。そしてあの常盤御前の再婚の相手一条長成が、牛若丸が血気にはやっているので、同じ中の関白家の縁戚である基成に頼んで奥州に引き取って貰ったのが縁で奥州藤原氏も義経と運命を共にします。
信西と同じく、平清盛の幼女(五女)を息子の妻とします。また妹は摂関家の近衛基実の妻となって基通を産んでいます。能力無しと言われながらなかなか目鼻が利いていますね?
信頼は更に近衛大将を望んで、後白河上皇も承諾していましたが、信西に相談して拒絶され、信頼はこの日から信西を恨み亡き者にしようとします。ちょうと二条天皇の近臣からも信西は恨まれていました。
信頼は、同じく信西を恨む源義朝に接近し、ついに1159年12月、清盛が熊野参詣に行っている隙にクーデターを起こし、山中に逃げた信西を見つけ晒し首にします。義朝は更に平家打倒を提案しますが、信頼は「それには及ばず」と却下します。きっと清盛と姻戚関係を結んでいたからでしょう。
信頼は結局人望がなく、二条天皇の近臣からも裏切られ、軟禁していた天皇も清盛の邸に逃げ込み、後白河上皇も仁和寺へ逃げ、あっという間に朝敵にされてしまいます。義朝は敗れて三河へ逃げ、やがて家臣に殺されます。
信頼も捕まって、27歳で六条河原で斬首される事になります。ここで後白河上皇は一応命乞いをするのですが、拒否されると見捨てます。兄の崇徳上皇の時といい、仲が良くても捨てる時はあっさり捨てる。それはその後も続きます。
ところで、信頼に形だけ嫁いだ清盛の五女ですが、もちろん離縁し、やがて冷泉(後に四条)隆房(北家魚名流)と結婚します。その子隆衡(たかひら)の娘貞子は、西園寺実氏(公経の息子)の妻となり、その娘姞子は後嵯峨天皇の中宮となって、後深草天皇・亀山天皇を産み、現代の天皇にまで繋がっています。