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第123回 後冷泉天皇崩御

治暦(じりゃく)3(1067)年2月、大江匡房(27歳)が東宮尊仁親王(34歳)の学士に抜擢されます。赤染衛門の曾孫として生まれ、神童と謳われた匡房でしたが、実は大人になってからは官職に恵まれず出家しようとまで思っていたのですが、才能を惜しむ人から諌止されていたのです。

匡房の事を聞いていた尊仁親王は改めて匡房の博識に驚きます。匡房もまた尊仁親王の聡明さに敬服しました。匡房はこの後長く宮中に務め、あの源義家も兵法を請うています。

さて、翌年になり後冷泉天皇(44歳)は病に臥しました。天皇の乳母であった賢子(70歳)は天皇の落胤で表向きは自分の孫とした為行(10歳)と秘かに今生の別れをさせた事でしょう。後年の後小松天皇も落胤の一休と最晩年によく会っていたと言われます。

天皇の崩御が近い事を悟った頼通(77歳)は3月、関白を辞して息子の師実(27歳)に譲ろうとします。しかしここで弟の教通(73歳)が、亡き父道長から頼通の次の関白にしてやろうと約束していた事を頼通に言いますが頼通は取り合いません。仕方なく教通は姉の大宮彰子(81歳)に訴えます。
賢明は彰子は、次は師実に譲る事と約束させて教通が関白になる事を支持します。
4月16日(17日とも)教通は念願の関白になりました。
そして関白の職権を使って恐るべき事をやります。皇太后であった禎子内親王を太皇太后、後冷泉天皇の中宮であった章子内親王(後一条天皇皇女)を皇太后に、皇后寛子(頼通女)を中宮にして、そして我が娘歓子を女御から皇后にしたのです。つまり後冷泉天皇に三人の后、一帝三后という前代未聞の事態となりました。今まで一帝二后はありましたが。(一条天皇の皇后定子と中宮彰子が先例)

このめまぐるしい事態の中で、4月19日、後冷泉天皇は44歳で崩御します。そしていよいよ尊仁親王ー後三条天皇の即位となるのでした。(続く)

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