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第22回 「須磨・明石」の構想

香子(紫式部)が24歳の正暦(しょうれき)4(993)年、都では疱瘡が流行し、4月に香子は伯父為頼が守をしている摂津に避難します。現代でもそうですが、流行病は最終的にはとにかく避ける事しかない感じがします。この時、一つ上の姉も同行したのかは分かりません。病弱だったし。拙著『源氏物語誕生』では自分が生まれた播磨を見たいと無理に同行したとしましたが。

4月から少なくとも8月までは逗留した様です。閏10月20日に、これは菅公の怨霊のせいだという事で、道真に太政大臣を追贈しています。
ところで向学心・好奇心の強い香子の事。在原行平が流されたという伝承がある須磨を見逃さない手はなかったと思います。一応お姫様ですし、徒歩ではなく、輿、船で須磨そして明石まで見物した可能性があります。『源氏物語』では一度は訪れた様な「ここは他と違って波が穏やかで眺めも良い」という表現があります。
行平は文徳天皇のお気に入りの女官に手を出して、須磨に隠匿したと言われます。弟の業平も藤原基経の妹・高子と芥川に出奔したという話はあったし、香子は物語の光源氏像を膨らませた事でしょう。
そして明石にも行ったであろう香子は、自分が生まれた播磨をよく見、明石の君が源氏に見初められ、そして姫君を産んでその姫が東宮妃になるという展開をしたのではないでしょうか?
よく「桐壺」からではなく、「須磨・明石」から書き始めたという説を聞きます。「須磨・明石」が書き終わってからそれに相応しい冒頭の話を創作したのだと。真実は分かりませんが。

疱瘡の流行が収まって、帰京した時、香子は中宮定子に遠縁の清原元輔の娘が女房として出仕し「清少納言」と呼ばれて活躍しているのを聞きました。
また7月29日に道長の妻・倫子の父・左大臣源雅信(光る君では、益岡徹さんが演じます)が74歳で亡くなった事を知るのでした。(続く)

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