第110回 太皇太后穏子の死と師輔の密通
天暦6(952)年3月、30歳の朱雀上皇は出家し、法皇となります。そして4月には仁和寺へ遷ります。この辺りは『源氏物語』「若菜の帖」と似ているというか、ここから紫式部は採ったのでしょう。物語ではもうお少し朱雀院は年長ですが。
そして8月15日に朱雀法皇は崩御します。恐らくただ一人の子、昌子内親王の事を案じて。その昌子内親王は11月に数え3歳で著裳をします。生母もすでになく、祖母である穏子(68歳)が引き取ったでしょうか?
その穏子もそれからめっきり体調を崩し始めました。醍醐天皇の最右翼の女御として時めいていました。これまた『源氏物語』では「弘徽殿の女御」のモデルとなっていました。朱雀・村上両天皇の国母として貫禄があった事でしょう。
朱雀法皇が崩御してから1年半後の天暦8(954)年正月4日、穏子は70歳の生涯を終えます。
穏子にはもう一人、未婚の康子内親王(35歳)という方が宮中にいました。
その年、時代の寵児とも言うべき右大臣師輔(47歳)の所の正室・雅子内親王(45歳)が8月に亡くなりました。師輔は雅子内親王の以前にも同じ醍醐天皇の同腹の姉の勤子内親王を貰っていましたが、やはり以前に亡くなっていました。そして「内親王好き」の師輔は康子内親王に目を付けたのです。
広い内裏の中で、師輔は康子内親王付きの女房を買収し、忍び込む事に成功したでしょう。
天暦9年には何と男児が産まれたという事ですが、この男児はすぐに僧とされ、闇から闇へと移されています。後に東大寺の別当で大僧正になった深覚
だと言われています。
師輔の密通は表沙汰にはなりませんでしたが、知る人は知っていました。『大鏡』に、ある嵐の夜に、村上天皇(31歳頃か)が姉の康子内親王が心配となり、その時居た左大臣実頼(57歳頃)に誰か見に行かせてほしいというと、実頼は「御庭が汚れているので無理でございましょう」と答えました。「庭」というのは隠語です。そして村上天皇も察したという事です。でも内親王に密通など流罪ものなのに師輔には何もお咎めはなかったのですね、(続く)