第4回 阿保親王(2)
33歳で京に戻ってきて伊都内親王と結婚してからは阿保親王は安定した幸せを得ました。翌年には業平(最初は業平王と呼ばれていました)が生まれます。
同じ年、淳和天皇に恒貞親王が生まれます。この業平と同い年の恒貞親王も数奇な運命を辿ります。
そしてその翌年、阿保親王は願い出て、異母弟高岳親王の子息同様、男子全てに「在原」の姓を貰ういわゆる「臣籍降下」をさせました。
臣籍降下というと何だかほんとに格下げという感じを受けるのですが、当時の感覚としては「栄典」で、本人の才覚次第で出世は思いのまま。それに嵯峨上皇としても、まさか無いだろうが、平城上皇の遺児たちが皇位簒奪を考える不安を取り除いてくれたという事で全ての人が納得した答えでした。
833年、在位ちょうど10年で、淳和天皇は皇位を甥の仁明(にんみょう)天皇(嵯峨上皇の皇子)に譲ります。するとお返しの様に、今度は9歳の恒貞親王を皇太子にします。両統迭立の感じがこの時ありました。
840年、淳和上皇が55歳で崩御します。最大の後ろ盾を亡くした16歳の恒貞親王は不安になり皇太子辞退を何度も願い出ます。しかし親王の外祖父でもある嵯峨上皇は優秀な親王を思いやって留意します。
そして承和9(842)年、運命の年がやってきました。
7月、最大権力者の嵯峨上皇が危篤となったのです。
そこへ恒貞親王付きの者たちが阿保親王の邸に頼みにきます。
「このままでは親王様は陰謀で廃太子にされるかも知れません。ひとまず東国へ避難したいのですが、阿保親王様にも付いてきて頂きたいのです」
願いの使者を返した後、阿保親王は悩みます。
「今になってこんな・・・」
もう政争に巻き込まれるのはごめんです。それで親王は嵯峨上皇の皇太后で聡明な橘嘉智子に密書を送ります。
「親王方の者に変な動きをせぬよう言って下され」
しかし夫の危篤で気が動転している嘉智子は冷静な判断ができず、その密書を腹心の藤原良房に見せます。良房というのは稀代の陰謀家でした。良房はにんまりとします。
「これこそ、ご謀反の証拠!」
嵯峨上皇の崩御後2日にして東宮謀反という事で廃太子。そして60名以上が流刑になるという大疑獄事件となりました。
阿保親王は驚きます。阿保親王の密書が証拠という事は明るみとなりました。最悪の展開です。
それから阿保親王は邸から一歩も出ず、3カ月後の10月、51歳で亡くなりました、近くで見ていた18歳の業平は何を感じていた事でしょうか?
作歌の杉本苑子さんは、阿保親王の事をよく思われてないようで、「藤原氏の走狗となって死んだ」と書かれてあります。親王の、どうしようもない運命への対峙を再検討して頂きたいと思います。