第28回 平清盛(4)
保元の乱後、1158年清盛41歳の時、大宰の大弐に任じられ、清盛は博多で日宋貿易を見ます。
その雄大さ、利益の大きさに、清盛は遠い九州ではなく、京の近くに港を造り、日宋貿易をしようと誓うのでした。
1159年、平治の乱が起き、人望に勝る清盛が、源氏の大将義朝に勝利します。義朝は尾張の家来を頼りますが、哀れ風呂場で惨殺されます。
三男でその時、十三歳の頼朝は負傷しそして捕えられます。
翌年、清盛の前に引き出された十四歳になったばかりの頼朝を清盛は処刑しようとします。しかし頼朝は、後白河上皇の姉で仲の良い上西門院(じょうさいもんいん)にかつて仕えていて、その助命が清盛の継母池の禅尼に伝えられ、「亡き家盛に似ております」との名台詞で頼朝は辛くも助かります。
頼朝は小柄で頭でっかちだったといいますから、本当に家盛に似ていたかは疑わしいですが、清盛の優しさで源氏の嫡男を助けてしまいます。
しかし関東の伊豆は最大のミステイクでした。八幡太郎義家以来、源氏の本拠地だったからです。やはり油断があったのか?
頼朝の同母弟・希義(まれよし)は四国に流されますが、頼朝の挙兵後すぐに討ち取られています。
20年の歳月が流れ、14歳だった美少年頼朝も34歳の壮年になって平家滅亡に向かっています。清盛は何を思ったでしょうか?(続く)