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第24回 玉鬘(たまかずら)の幻影

※最初に業務連絡:『源氏物語誕生ー紫式部の生涯』のペーパーバック版がキンドルから発売されました。(税込2200円)
紙媒体はもう無くなっていて、時々「やっぱり紙の方が読みやすい」という声があり、出版いたしました。興味あれば宜しくお願いします!

さて、2月に長徳と改元された年(995年)は香子(紫式部:26歳)にとっても京にとっても最悪の年となりました。
まずまたも疱瘡の大流行で多くの人が亡くなりました。
4月に時の関白藤原道隆(43歳)は疱瘡ではなく大酒のためと言われますが亡くなり、後継ぎを巡って大激震が起こります。
5月10日には香子が敬愛する『蜻蛉日記』の作者(道綱の母)が61歳(?)で亡くなり、道綱の後、花山退位の功績を強引に主張し関白になった道兼も5月10日に35歳で亡くなり、その任期の短さゆえ「七日関白」と言われました。
次の関白でまた大揉めとなるのですが、愛する中宮定子の兄伊周を抑えて弟の道長を推したのは出家していた東三条院・詮子(一条天皇の母)です。この辺りは『源氏物語』でも出家してから発言権が増した藤壺の女院を彷彿とさせます。
7月(10月とも)に幼馴染の藤原実方の娘が父と共に奥州へ行く事になります。前年に実方が雨の中、花見をしていたのを行成(三蹟で有名)が陰で笑ったというのを聞いて短気な実方が行成に暴行しそれを運悪く一条天皇が見ていたというのです。
百人一首の「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな」は一説にはこの女性の事ではないかとも言われています。追放される父ゆえ夜陰に紛れてこっそりと訪れた幼馴染。顔もはっきり分からぬままに別れ、それが今生の別れとなりました。幼馴染は奥州へ行って父と共に謎の死を遂げるのです。自選した『紫式部集』の冒頭にこの歌が載っています。
そして10月頃、病弱だった姉が亡くなります(27歳)。彼女の面影は「宇治十帖」でやはり25歳の若さで亡くなった大君に残されています。
そして追い打ちをかけるように幼い頃から親しくしていた従姉(平惟将の娘:大顔の姪)が父が肥前に行くというので突然の別れとなります。
九州としばらく手紙のやり取りをして、現地の男と結婚して女児を産むものの親友ともいえる従姉は亡くなってしまいます。
ただ、娘が九州から京に戻ってきた時、香子は「玉鬘」の構想をしたのではないでしょうか? 識者の間でも「何でわざわざ九州へ行って戻ってくる設定の必要があったのか?」というのが話題になっていますが、この事実に準拠しているかも知れません。(続く)

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