第35回 後白河法皇~日本第一の大天狗(1)
頼朝をして「日本第一の大天狗」と言わしめた後白河法皇。怪物、俗物などいろいろ個性的?という言葉が小さいほどの方です。「法皇を信用するな」これは清盛が亡くなる前に言ったと言われます。
確かに、人生を見てみると、すごく仲良かったのに急にバッサリという事が多くて油断がならないですかね。人情味もあったらしいですが。
後白河法皇は鳥羽天皇と待賢門院璋子の第四皇子として生まれました。「四の宮」と呼ばれて、孫の後鳥羽上皇を即位させる時も「同じ四の宮じゃ」と言ったと言われます、兄の第一皇子は崇徳上皇。二の宮と三の宮は病弱で早世したようです。
幼い頃から今様が好きで、十歳くらいからは虜になり、喉を割る事三度。湯水も通らなかった、それでも歌い続けたという伝説があります。更に妖しげな歌い手なども邸に引き入れたりと。父の鳥羽上皇は「あれは天皇の器ではない」と言い放ちましたが、これには裏の意味もあって、后の璋子は祖父白河法皇の養女だったのですが、余りにも美しすぎて法皇との関係が取りざたされており、崇徳上皇の父は本当は白河法皇ではないかとの噂がありました。(これは月のものがある時は宮中を去らなければいけないので、ある学者が、璋子が崇徳上皇を妊娠した時、鳥羽天皇と同殿していなかったと科学的に検証しています)
もちろん白河法皇の存命中はそんな噂が鳥羽上皇(もう崇徳天皇に譲らされていました)の耳に入ったら、入れた者が処罰されますので、恐らく鳥羽上皇が知ったのは、1129年の白河法皇の崩御の時でしょう。鳥羽上皇27歳。璋子29歳。崇徳天皇11歳。雅仁(後白河)3歳。そして全ての人の運命が変わっていきます。
鳥羽上皇の璋子への愛は急速に落ち、代わって美福門院得子という女性が寵愛されます。雅仁(後白河)13歳の時、得子は皇子を産み、その皇子は生後3か月で皇太子、そして3歳で崇徳天皇を譲位させて、近衛天皇とします。この時、鳥羽上皇一派は崇徳天皇を騙して、養子としたら将来院政ができるよとして譲位させたのに、譲位の式の宣命を見ると「皇太弟」と書いてあります。直系でないと院政はできないという不文律があったので、崇徳上皇は鳥羽上皇をひどく恨み、両者の関係はただならぬものになっていきました。
雅仁(後白河)はそんな事とは無関係。ますます好きな今様に傾倒していきます。
私生活では16歳の時に、11歳年上の従姉と結婚し、翌年皇子守仁(もりひと)が生まれますが、その時に妃は亡くなってしまいました。守仁を美福門院得子が何故か引き取ります。一つ年上の我が子近衛天皇は病弱であり備えにしたのでしょうか?現実はその通りとなります。
1145年に生母待賢門院璋子が45歳で亡くなり、お互いに悲しむ兄・崇徳上皇から同殿(一緒に住む)事を提案されて雅仁(後白河)は移ります。仲が良かった事が分かります。最初は遠慮していたものの、やがてやっぱり好きな今様三昧となり、音曲が響き渡ったといいます。これならただの「風流皇子」として生涯を終えた事でしょう。
しかし運命が一変します。1155年、かねて病弱だった近衛天皇が17歳で子を遺さず崩御したのです。
崇徳上皇は我が子重仁親王を即(つ)けたかったのですが、鳥羽法皇と美福門院にその考えはありません。結局その時、寺に預けてあった13歳の守仁親王にしようとなりました。ところが、守仁親王の父親の雅仁が29歳で存命なのにそれはまずいという事で「中継ぎ」で雅仁に天皇の座が回ってきたのでした。
すぐに知らせが雅仁の所に来ますが、同じ邸に住んでいる崇徳上皇には何の挨拶もせずに(まあ気まずいとは思いますが)さっさと宮中へ出向いたと言う事です。後白河法皇が、仲良くしていても別れる時はバッサリとした最初でした。(続く)