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第80回 宇多天皇譲位。後釜の設定

寛平9(897)年2月、惟喬親王が小野の里でひっそりと54歳で亡くなりました。『伊勢物語』で蘇るのはもう少し先です。

6月には台閣筆頭の右大臣源能有(よしあり)が53歳で亡くなりました。この方は惟喬親王の異母弟、清和天皇の異母弟で、生母の身分が低いので早くから源氏になっていた様でした。しかし行状を見ると、他の賜姓源氏とは違って宇多天皇を陰から支えていた様で、実務にも有能で、また基経の娘を妻に迎え、生まれた源昭子は、藤原忠平の妻となって師輔を産んでいます。師輔の子孫は道長となって大繁栄をしますから、能有の血は皇室・摂関家に流入しました。権力者と適度につきあうバランス感覚の優れた人だったのでしょう。

能有が亡くなった後、宇多天皇は病気にもなって気弱になって、7月3日、東宮敦仁親王(13歳)に譲位します。道真は後ろ盾をなくすので反対した様ですが、在位10年。宇多天皇としては満ち足りた気持ちがあったのでしょう。最大の脅威であった、かつての主人・陽成院は母高子が廃后となって勢力が失墜しています。おまけに宇多天皇の妹・綏子内親王を妃にしたので、義兄弟となりました。
新帝・醍醐天皇にはいわゆる「寛平の御遺戒」という心構えの様なものを伝えています。これは『源氏物語』にも桐壺の帝が先帝から言われたと載っています。

ただ宇多上皇は、道真が失脚するのを案じていました。道真が可哀想というのではなく、自分の手足が無くなってしまうのを恐れたのです。
いい後釜がいました。時平の弟・忠平です。次兄の仲平は女人に心を奪われているので漏れました。元服の加冠に自分だけ天皇にして貰えなかったので拗ねている筈です。
宇多上皇は18歳の忠平に目星をつけ始めました。(続く)

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