第119回 摂関家後嗣・通房の死
隆家が亡くなって3カ月後の、長久5(1044)年4月、頼通(53歳)の嫡男で摂関家の大事な跡取りである通房が急な病となり20歳の若さで亡くなりました。
頼通は18歳で、具平親王の王女である15歳の隆姫と結婚して以来、正室の隆姫を愛していました。しかし隆姫は不妊で、摂関家の将来を案じた道長は、二番目の妻を推奨しますが頼通は受けず、病にまでなってしまいます。
仕方なく、隆姫の弟の源師房を養子にして道長の高松方の尊子と結婚させたりしました。また頼通の弟の教通には男子が何人かいて養子にしようという話がありました。
しかし頼通は33歳の時に、隆姫の従妹にあたる対の君を愛しました。隆姫の母の兄・源憲定の娘です。隆姫はもちろん面白くありませんが、生まれると初めての男の子。道長は喜んで、生まれた通房を土御門殿に引き取り、摂関家後嗣として育てます。
これで女人に開眼したというか、味をしめたのでしょうか、頼通は土御門殿に息子を見に来る内に、母・倫子に仕える祇子という女房を愛し、37歳の時に男児が生まれます。この祇子の父親は藤原頼成なのですが、実は具平親王の落胤ーつまり隆姫の兄なので、祇子は姪に当ります。
頼通の二人の愛人は、正室隆姫の従妹と姪なので、やはり隆姫を愛していて、その分身まで愛した?というのは美談ですね。
祇子との間には次々と子が生まれて、その都度養子先を見つけて(というか家来に探させて)養子に出していました。男子が4人。女子が1人。女子は将来宮中に入内するかも知れないので大事にしておきました。
通房は、源師房と尊子の間に生まれた妧子姫が2歳下と丁度良かったので婚礼させました。(通房は側室も持っていました)しかし、子ができない内に通房は急死してしまったのです。
幸いというか2年前に、祇子はもう一人の男子を産んでいました。本来どこに養子にやろうかと思っていたのが急展開。その3歳の男児は、摂関家の後嗣として公表される事になります。これが師実です。
53歳の頼通としては、この3歳の師実がある程度成長するまでは権勢を離したくありません。何か、後世の、老いた豊臣秀吉が、幼い実子秀頼を案ずる光景に似ていますね。
養子に出されていた、師実の4人の兄たちは成長して事態を知り、複雑な思いでしたが、仕方ありません。タイミングというのがあるのですね。
その年の秋、後朱雀天皇の女御として入内していた高松方の権大納言頼宗(52歳)の娘延子(21歳)は懐妊していた事が分かりました。
喜ぶ高松方。大宮彰子も久々の孫の誕生で気を良くしています。
ところが、11月に寛徳と改元された翌月12月に、当今・後朱雀天皇は36歳でしたが背中に腫物が出来、それは深刻な事態となってきました。(続く)