見出し画像

小さいカニと地球

満潮の夜、私は砂浜へ降りる階段に腰掛けていた。
真夜中の水面はほとんど目には映らず、たまに月の光を照り返す揺らぎで、かろうじてそこが海なのだと分かった。

私は何も言わずにただ目の前の暗闇を眺めていた。
それは隣にいる、小さなカニも同じだった。

私は一夏をこのカニと過ごしていた。カニと出会ったのも、この海だ。
私は足元をよく見てなくて、危うくこのカニを踏みかけた。咄嗟に避けようとして転げた私を、カニは宇宙の力で支えてくれた。

この赤くて小さなカニは、ただのカニではない。宇宙から地球を探索しに来た、異星のカニなのだ。
それを知っているのは、この地球で私だけ。

"何を考えているのですか?"
カニはたまに脳内に直接語りかけてくる。
「カニと出会った日のことを。」
カニは無口なので、私の答えを聞くとそれきりまた口を閉ざしてしまった。

カニは地球のカニみたいだし、地球の人みたいに喋るが、それでもカニは宇宙のカニだった。
何を考えているのか分からないし、何を言っているのか分からないこともあった。

しかし、カニと私はそばにいた。
私のこの夏の思い出を言葉にしたら、1文につき1匹カニがでてくる。
夏らしいことは全部このカニとした。

しかし、そんな夏も今日で終わりだ。

昨日の夕方、カニと砂のお城を作っていたら、突然"満潮の晩に宇宙に帰る"と告げられた。

私はショックで、むしゃくしゃして、カニをお城の1番高い屋根に載せた。
カニはどうすることもできず、ただ屋根の縁をカサカサと周回していたが、やがて宇宙の力を使って降りてきた。

そのまま、今日の夜が来てしまった。
カニと私は何も言わずに連れ立って、この階段から夜の海を見ている。

「カニ、ここに何しに来たの?」
"……それを伝えたら、帰る前にあなたを消さなければなりませんが。"
「じゃあいいや、今の無し。」
カニの使う宇宙の力は偉大だ。私1人を消すのなんてきっと容易い。それでも私を生かしているのは、それだけカニの力が強い証なのだと思う。

"ただ……ほとんど私のやるべきことは成せませんでした。"
「そうなの?なんで?」
カニはまた黙ってしまう。私もそれ以上聞けなくて、黙るしかなかった。

いつもカニは無口だったが、今日の沈黙だけは私をそわそわさせた。
カニが帰ってしまう前に、もっとカニと話しておくべきことがある気がした。

「じゃあ、また地球にくる?」
私は勇気を振り絞ってカニに尋ねた。
波音に紛れて、微かにカニが動く音が聞こえた。
カニの方を向くと、カニは小さな両爪を持ち上げてこちらを見ていた。
"来ません。もう、地球には。"
「……。」
なんとなく分かってはいたが、我慢できずに涙がぽろぽろ溢れてきた。

カニとはもうお別れだ。カニとはもう、一生会えないんだ。私は涙を止めることができなかった。
カニは、ふわっと浮かんで私の肩に降りたった。

"地球には、あなたがいることが分かりました。だからもう、私は地球にはこない。"
カニは小さい爪で私の涙を拭った。
"私と会えなくなるのを悲しまないで、私は宇宙からあなたを見守っています。"
「宇宙からじゃ、見えないじゃん……。」
"いいえ、大丈夫。私にとっては、あなたが地球。
だからどうか、あなたが悲しくて、私に会いたくなったら、宇宙を見上げて私を見つけて?"

カニはそのまま柔らかな光を放ち、肩から浮かび上がると、夜空に溶け込むように消えていった。
「私は地球じゃないし……カニは、カニだよ……。」
私はぽろぽろと涙を流しながら、星の輝く夜空をずっとずっと見上げていた。

そのまま、秋が来て、冬が来た。
私の日々は変わることなく、たまにカニカマを食べてはカニのことを思い出した。

春になると、夜空に蟹座が見えた。
私は1人で海に行って、そちらに手を振ってみる。
なんとなくだけ、宇宙の力を感じた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?