自殺未遂の事を詳しく話す
週7カップ麺です 生きてます
以前投稿した“死のうとしたが未遂で終わった話”という名前のnote、ザックリと書いていて詳しい部分が話せていなかったので話していこうと思います
追記:思い出したら追加でまた書いていきます
2023年(訂正:2022年です)2月2023年で合ってます
ただただ、これからも生きていくという事実が苦しかった
実の兄にせがんでまでODする為の薬を買ってもらった
もちろん兄はすぐ買ってくれたという訳では無く、馬鹿な妹の悲惨な姿に耐えられなかっただけなので兄は何も悪くない事を理解して欲しい
当時の私は毎日毎日独りで静かに泣いていた
その涙は、自分の意思じゃなかった
勝手に出てきては止まることを知らなかった
狂ってしまうくらい死にたかった
薬を飲んで気絶するように眠って、最悪な気分で起きた 泣きながら起きていた
起きてはまた薬を飲んだ
そうでもしないと生きていけなかった
動悸、頻脈、吐き気、頭痛、心臓辺りの不快感
これらの症状はもはやデフォルトになっていた
そんな症状の感覚が本当に嫌で、生活を見直せばマシになった未来もあったかもしれないのにその時の私は視野があまりにも狭く、「終わりにしよう」といつも考えていた
緩やかな自殺をしていた
自然と呼吸を限界まで止めていた
しばらく止めていると、心臓が破裂しそうなくらいの動悸、激しい耳鳴り、身体の内側が熱くなるような感覚、頭痛がし始めた
これを何回か繰り返していると、呼吸がすごく浅くなった
眠りについても呼吸が苦しくて何回も目が覚めて眠れた感じはしなかった
2月12日
限界だった
早朝、トイレにこもって腕を切っては泣いていた
母親が起きていて藁にもすがる思いで話を聞いてもらったが、思っていた返答は返ってこなかった
返ってきたのは
「もう入院させるよ」「ママだってきついよ」
という言葉だった
今考えると、こう言い放った母親の気持ちも理解出来なくもない
娘からこのような話をされるのは苦痛だと思う
母親が仕事で家を出た後、私はまた薬を飲んだ
夜に目が覚めた
頭がザワザワしていた 落ち着かなかった
いつか落ち着くだろう、と泣きながら思っていた
だが中々落ち着くことは無かった
それどころか、希死念慮は加速していったSNS(Xでは無い)に書き込んでいたら、「こういう奴のせいで本当に苦しい人が理解されないんだよ」「ばいばーい笑」的なニュアンスの反応が来て、そこで何かのスイッチが入って自殺を決心してしまった
訂正:自殺しようと家をとび出た後、SNS内でそのような反応が来て自殺の意志の固さに拍車がかかった
上着を着て家を飛び出た
「ちょっと遠いけど海まで行くか」と考えながら歩いていた
衝動的すぎる行動だった為、遺書は残していなかったがSNSに「死にます 今までありがとうございました(うろ覚え)」的なツイートをし、SNSのプロフィールを“2022 2月12日 終”に変えた(終われなかったけど)
最期に誰かと話したいと考え、適当に募集したら声をかけてきた人と話していた
「死なないで」という言葉も煩わしくなり、通話を切った
母親や兄からの電話が止まなかったので携帯の電源を落とした
走りながら「あそこがある、あそこのマンションで死のう」と思いつき、12か13階建てのマンションまで走って向かった
到着したが、まあ当たり前にオートロックが掛けられていて何処かが開いていないか必死にドアをガチャガチャしていた
ふと上を見ると監視カメラがあり、流石に自分が不審すぎて通報か何かをされて自殺の邪魔をされるかもしれないと考えて恐くなったのでそこは諦めた。
移動距離は3〜4kmは軽く超えていたと思うが、ずっと走って移動していた
引きこもりで運動不足の私がそんなに走れるわけが無いのに、その時は変なアドレナリンが出ていて疲れたとかは全く思っていなかった
宛もなく走り続けていると、3、4階建てのマンションがいくつか目に入った
その中の一つが、友人の家だった
「流石に友人の家を事故物件にする訳にはいかないな」と切羽詰まってはいたがそこだけは考えられたので、別の場所にした
何回か私を探しに来た母親の車とすれ違いそうになったが、本能的に物陰に身を隠していた
そんな事をしながら移動していると4階建てのマンションが近くにあり、「もうここでいい、運が良ければ」と自分の命を“賭け”に出した
階段を駆け上り、4階の通路まで着いた
塀から見下ろすと、母親の車が通り過ぎて行った
不思議と、“怖い”などの感情は感じなかった
それどころか「やっと終われるんだ!」と笑顔だった
「人を巻き込む訳にはいかない」と思い、母親の車が通り過ぎるのを待ち、下に人が居ないことを確認して誰かに見つかるといけないと焦っていたのもあり、塀に足場的なものがあったのでそこに足を引っ掛けて勢い良く飛び降りた
飛び降りた瞬間、「ハッ」とするような感覚があり、2回ほど掴むものを探すような手の動きをしていたが諦めた
同時に、「意外と走馬灯って見えないもんなんだな」と落下しながら思っていた
落下している最中に見えた景色が、妙に綺麗に見えた
次に意識を取り戻す時は、「聞こえますかー」という警察だか救急隊だかの声だった
そのマンションの住居人と私が倒れているのを通報した人にはどうにかして詫びたい
すみませんでした...
夜中なのもあってか目の前が真っ黒で何も見えなかった
「名前言える?」「住所はここ?」
などの声も聞こえたので、「○○(本名)...「家ここじゃない......(敬語使えよ)」と返答した
「よかった、探してた子だ」という声も聞こえた
「なんで怪我してるのかな?」と聞かれたのかは覚えていないが、「飛び降りた....」と返答したことは覚えている
いつの間にか救急車の中にいた(何となく理解できた)
救急隊車の中で、顔に手を当てると生暖かい汁の様な何かの感触がしてその時の私は本当にそれが何なのか理解できずに「あの、これ、何ですか」と誰かに聞いた
「血だよー ...血って言って欲しいのかな?」という誰かが他の誰かと話すような声も聞こえてきた
搬送先の病院で、なんか分かんないけど服を脱がないといけなかったのか「服を脱がせられないから切っていい?」と聞かれ、拒否した記憶がある(その後どうなったのか覚えていないが、その時に着てた服は無事にまだ残っている)
次はあまりの痛みで「う゛あーーーーー゛゛゛゛!!!!!」「痛いよ〜〜〜〜〜〜゛゛゛゛!!!!(ギャグではなく本当にこんな感じ)」とICUで泣き叫んでいる自分の声で目が覚めた
この叫び声は自分の意思で出しているものでは無く、勝手に声が出てしまい涙も止まらなかった
ICUの看護師に「他の患者さんもいるから静かにしようね」と言われ、う゛っう゛う゛(号泣)と声を必死に抑えようとした
何故か体がすごく熱く感じ
ギプスの感覚がなんかすごい強く締め付けられてる感じだった(嫌だった!)
今が何時かも分からないが痛みで眠ることもできず、でも何故か急に眠っていたので何かの鎮静剤を打たれたと勝手に思っている
翌日か2日後に、医者か看護師に「今から大きい病院に行くからヘリコプターに乗るよ(え?)」と言われ、ドクターヘリに乗って移動するとかいう普通に生きていたら経験しないような事を経験した
ストレッチャーに乗る時に「ごめんなさい」と周りにいた看護師に泣きながら伝えた
看護師は「それは家族の人に言ってね」と言っていた
ヘリコプター内は割と狭くて目の前に医者か何かの人が何人か座っていた
音が大きいらしくイヤーマフをつけてくれた
その大きい病院に着いてからも何日間かICUに居たみたいで、そこの記憶はあまり無い
整形外科病棟に移り、そこで初めて医者と話したような気がする
医者いわく、ODのせいで肝臓移植手前だったらしい。当時の脈も200超えていたという話だった
確かにあの時の動悸は明らかにおかしかった
ドッドッドッドッを超えて“ドドドドドドド”という感じだった
あとなんか腎臓からも出血していた
肝臓のダメージを軽減?する硫黄の匂いを5倍程強めた様な匂いのする液体の薬を何日間か飲まされた
私は 鼻骨、踵骨、骨盤、仙骨、恥骨を骨折していた
あと前歯が2本とも根元から折れてしまい今も前歯が無い(最悪)
医者に「鼻痛くない?」と聞かれたが、正直下半身の痛みが凄すぎて鼻が痛いとかはよく分からなかった
高頻度で体のどこかしらがチクチクチクチクと数秒間にわたって酷く痛かった
何秒かに1回はこれが繰り返されるのは辛かった
医者に聞いてみると“線維筋痛症”という外傷や慢性心身的ストレスから起きるものらしい
これは今になっても残っている
看護師専用の電話?的な物で母親と電話した
母親は「スマホのパスワードを教えなさい」「警察の人が見ないといけないから」と私が拒否してもパスワードを聞きだそうとしてきて、「教えないと解約する」というファイナルウェポンを出してきて私が折れたので携帯のパスワードを教えた
警察やら刑事やらに携帯の中身(SNS、投稿内容、写真フォルダ?)の写真を撮られてしまった
これは後に分かる事だが、友人からの連絡も母親が私を装って返信していたり(何故?)、SNSへの書き込みを勝手に消されていたり(これはまだ分かる)、プロフィールを勝手に変えられていた(え?)
だいぶ大きい手術を2回に分けてしたが、その事もあんまり覚えていない
手術後の直後、自分でも不思議なくらいの心細さに「手を握ってください」と周りにいた誰かに伝えたが「それは...できないですね」と返されて そうですか...と思って目を瞑った
手術後の濃い記憶として残っているのは、脚が他人の脚かのような感覚で自力じゃ全く動かせなかったこと
看護師に何回も「明日になったら動くかな」「来週には痛くなくなるかな」と泣きながら聞いていたこと
右の太ももの灼熱感が酷くてずっとビリビリした痛みがしていたこと
まだ2月で外の気温は氷点下いくときもあったのに暑くて暑くて仕方が無く夜は窓を開けて寝ていたこと
体温調節がイカれていて物凄い暑いと思ったら冷たい飲み物を飲むと急激に体が冷えてガタガタし始めたこと.....
看護師はよく「時間が薬だよ」と慰めてくれていたが、余裕が無さすぎてあまり響かなかった
今思い返すと、確かにそれしか言うことないな、と思う
朝のオムツ交換とか、シーツ交換、何時間に何回か褥瘡(じょくそう)が起こらない為に体位変換を行うのだが、それは酷く痛く辛いもので、体位を変えるときは「あ゛あ゛あ゛゛!!!」という声が出ていた
これは少し恥ずかしい話で、絶対安静でトイレも行けなかったので尿道には管が入っており、大きい方...をする時はオムツだった
何日も大きい方が出ない時は看護師が指をいれて掻き出すのだが........確かに恥ずかしくて辛い気持ちもあったけどその時の私はもうそれどころじゃなかった
私が痛みと不安で泣き叫んでいると、コワい女性看護師に「なんでそんな叫ぶの?なんで声出して泣くの?」「うっうって泣くのはわかるけど...笑」「うるさいからドア閉めるね」と言い放たれ、今となっては人生でいちばん苦しかった瞬間かもしれないレベルのトラウマとして植え付けられている
精神科医が病室に来て、精神病棟に移る事を提案してきたが拒否した
精神科医がちょっと困った様子だったのもあって、「...精神病棟に移る事は確定してるんですか」と聞くと「そうですね」との話でなんかこれ以上拒否しても仕方ないなと感じたので移ることになった
精神病棟ではナースコールが付けられず、必要な時に看護師を呼ぶことができなくて 看護師さぁ〜ん......泣 と声で呼ぶが定期的な巡回の時にしか来なかった
看護師が私の部屋の前を通る音がしてその時も呼んだが見事にフルシカトだった(ワラ)
挙句に精神科医には「あなたは病気でもなんでもありません」と言われた
↑じゃあ、コレは何なんだよ...
この精神科医の発言でモヤモヤした気持ちだけがしばらく残った
母親が面会に何回か来たが、「神様が助けてくれたんだから」「パパが助けてくれたんだよ」「感謝しなさい」「全部ママのせい?」「死ぬ前に親のことは考えないの?」「もう本当に頭がおかしいんだね」
などの言葉を延々と繰り返され私は言い返しもできず聞きたくない言葉を聴きながら泣くことしかできなかった
スマホも当然使えなかったので、時計も無い部屋で天井を眺めるか眠る事しかできなかった
入院何週間目かは分からないがカウンセリングが始まった
カウンセラーの先生は私の苦しい気持ちをよく聞いてくれた
何を話したかはもうほとんど覚えていないが、カウンセリング中は毎回泣いていた
カウンセリング途中に来た看護師の対応が酷く冷たく感じ、私が泣くのを我慢していると『我慢しなくていいよ』『辛いね』などの言葉をかけてくれて涙が止まらなくなった
リハビリも始まったが特にリハビリ時に膝から脛が酷く痛み、自分の体も自分の目で確認できないので「膝が痛いです……」と訴えると「まあ大きい痣あるからね」と返され、その時初めて自分の足に痣がある事を知った
色々あったがリハビリは結構上手くいき、1ヶ月もしたら松葉杖で歩けるようになった
2ヶ月という短い期間で退院をした
久しぶりに見た鏡は母親の車のサイドミラーだった
「こんな顔だったっけ?」と思った
実家での暮らしも快適という訳ではなかった
自由に身動きが取れないので母親が私のベッドに来ては説教、顔を合わせては説教だった
その後もリハビリは現在まで続き、普通に歩けるようになっても骨が離れてしまいまた手術という事もあったし、プレートを入れたり抜いたりする手術も数回した
4階という微妙すぎる階数ではあったが、生きるか死ぬかの狭間の重症だったのに死ぬ事は出来なかった
勝手に思ってる事だけど、普通にアレは人間が感じていいレベルの痛みでは無かった
当然希死念慮が無くなったという訳でも無く、その後も死のうとしたりodをしたり腕をザクザクにする行為は耐えない。
今を生きていることに対して感謝したいが、そんな余裕は未だに無い
ずっと“死”について囚われている
もう苦しくなりたくない