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原作だと川井さんも映画製作、橋での事件、千羽鶴の出来事から変わったよね
という質問をいただきました
「聲の形は将也の物語です」っていう作者のアドバイスから映画版は骨子が決まったと山田監督が語りますが、そう言われるまで悩んだのは原作だと主要人物がそれぞれの歪みに気が付き、成長する話でもあるからでしょうね。
漫画版では八重子さん含めて主要な登場人物はそれぞれの歪みに向き合って変わっています、変わってないの美也子さんくらいじゃないかな?彼女は完成されちゃっている=成長の余地が無いキャラなので。
例えば永束くんは彼の友人観が将也にとても良い影響を与えたことで「いいヤツ」扱いされていますが、原作を永束くんの物語として見ると将也という友人を得て、その友人を独占しようとする身勝手さをどんどんこじらせて映画作りに邁進するも、将也には自分(永束)とは関わりのない物語があることに硝子を通じて魅せつけられ自分の歪みに相対し、もっと広い目で「友人」とは何かを見つめる話でもあります
将也にとってのシマがいなかったんですね、永束くん、あの独占欲は永束くんは小学校の時から友達いなかった事でこじらせてきた歪みを爆発させているわけです。
人気キャラである結絃視点で原作を眺めると、結絃にも良くない点が多数あり、でも成長して解決していく話でもあります
映画版ではそういう他の登場人物の細かい描写はバッサリカットしてるので、永束くんとかただの良いやつになってますが、原作見ると空気の読めない距離感の詰め方狂ってる感じがよく書かれてるところ、成人式では将也のグループと話している最中に自ら別のグループへ突っ込んでいく事で永束くんの世界が広がったことが描かれてたりしてますね
まあそんな感じで、原作と映画版の大きな違いって、
質問にあげてくれた映画製作やそこから繋がる橋での事件が無いことで他のメンバーの成長をばっさり切り落とした映画版は
原作よりもっとずっとずっーーーと「将也と硝子の物語」なんだと認識しています。