ざんねん。
朝。登校途中の晴香が、学校の近くの道で赤信号に捕まり、足を止めた。
「…まだまだ寒いな」
入学から少し経った、ある日の朝。四月だというのに朝はまだ寒く、晴香が白い息とともにそうつぶやいた。
「晴香!」
遠くから名前を呼ばれる。横断歩道を挟んだ向こう側の道で、ジャージ姿の宗悟が大きく手を降っていた。「あぁ」と小さく手を降り返す。宗悟が横断歩道を走って渡ろうとするが、信号が赤なのに気づきいて足を止め、信号が変わるのが待ち遠しそうにその場で小さくジャンプを繰り返した。
信号が青に変わり、再び宗悟が渡ろうとする。しかし、「いや、そっち行くから」と晴香に言われ、「あぁ、そうか」と少し恥ずかしそうに足を止めた。
「おはよう」
「うん、おはよう。今日もがんばってるね」
晴香にそう言われ、宗悟が笑顔で頷く。
「今日、試合があってね」
「もう?」
「うん。空手部で、新人の歓迎試合があってさ」
「なにそれ」
「まぁ、新入生の力を見る実力テストみたいなもん」
「へぇ」
「部長の前で力を示すチャンスだからさ、気合い入れてんだ」
宗悟が両手でグーとパーを作り、胸の前で「ぱんっ!」と合わせた。
「そっか、がんばってね」
「ありがとう!」
「もう少し走ったら学校行くわ!」と、宗悟は笑顔で走り出していった。
その背中を見送る。宗悟と入れ違いで、晴香に手を振る友達の美緒の姿が見えた。
「美緒、おはよう」
「おはよう」
挨拶を交わすと、二人が学校に向かった。
「さっきの人、合格発表の時の?」
「そう。宗悟」
「部活の朝練?」
「ううん。自主トレだって。今日、空手部で新人の試合があるんだってさ」
「もう試合かぁ、すごいね」
「中学の時の先輩で、あいつが尊敬してた人が部長やってるから、『実力を示す!』って気合い入ってたよ」
「見に行くの?」
「どうなんだろ、見れるのかな。見れるんなら見たいけど」
「だよね、応援したいよね」
晴香の表情から試合を楽しみにしているのが伝わってくる。それを見て美緒が微笑んだ。
放課後、晴香が体育館に向かう。扉は開きっぱなしだった。中から、足を地面に踏み込む大きな音や、選手の威勢のいい掛け声が聞こえてきた。そーっと中を覗き込む。
「…あ、いた」
宗悟の姿を見つける。ちょうど、宗悟の試合が始まる頃だった。
「がんばれ」
心の中で、エールを贈った。
「やめっ!」
審判をしていた部長が試合を止める。
「荒木!」
宗悟は、試合に負けてしまった。晴香の口から「あぁ…」と落胆の声が漏れる。
宗悟は対戦相手とお互いに礼をすると握手を交わし、退場して行った。額から流れる大粒の汗を袖口で拭う。
「ざんねん」
そうつぶやいて、晴香はその場を後にした。
次の日の朝。通学途中の横断歩道。晴香が赤信号につかまり、足を止めた。
「…あ」
横断歩道を渡った向こう側。その道を、息を吐いて走り込みをする宗悟の姿を見つけた。宗悟も晴香に気づき、足を止める。信号が青になり、晴香が横断歩道を渡った。
「おはよう」
晴香の挨拶に、「おはよう」と返したあと、宗悟は荒れた息を整えた。その深く呼吸をする音だけが、二人の間に響いていた。
「…昨日、残念だったね」
晴香が、宗悟の努力を労う。
「…見ててくれたの?」
「うん。扉が開きっぱなしだったから」
「…そっか、ありがとう」
そこで、宗悟の息がようやく落ち着いた。「はぁ」とひとつ、息を吐く。
「…でも、よくがんばったね」
宗悟が、晴香の目を見る。
「…うん、ありがとう」
そう返事をしたあと、宗悟はもう一つ息を吐いた。
「また、がんばるよ」
そう言って笑顔を見せると、宗悟はまた走り出した。その背中を、晴香が見送る。
「晴香」
走り出した宗悟とすれ違う美緒が手を振る。「あぁ、美緒、おはよう」と挨拶をすると、二人で学校に向かった。
「宗悟君、また自主トレ?」
「うん」
「試合はどうだったの?」
「負け。がんばってたんだけどね」
「そっか。でも、すごいね」
「…なにが?」
「負けたのに、すぐにあんなに頑張れるって、すごいよ」
「…そっか、そうかもね」
そう頷く。昔から、宗悟の努力する姿を見てきた。その姿に、期待や尊敬を抱いていた。
「はるかぁ~」
教室で、美緒が泣きそうな顔をする。その日、入学直後に行われた実力テストが返却された。返ってきた答案には、美緒の期待外れな点数が並んでいた。
「晴香は?」
「まぁまぁ、かな」
晴香は、悪くはない点数だった。しかし、自分がした勉強の量から期待した程ではなく、少し残念な結果だった。
「結構がんばったんだけどなぁ~」
美緒が言う。晴香も同じ気持ちだった。
「あ~ぁ、ざんねん」
美緒が机に突っ伏した。努力が実らなかった人間の姿として、相応しい姿と表情だと思った。
全ての授業が終わり、美緒と晴香が校舎を出て正門に向かって歩いていた。
「あ、晴香」
美緒が指を差す。正門の隣の大きなレンガ造りの花壇に宗悟の姿があった。宗悟は、花壇の縁に足をかけて腹筋運動をしている。
「今日もがんばってるね」
「…そうだね」
そう話しつつ、二人が宗悟の元に近寄る。
「宗悟」
その宗悟に、晴香が声をかける。
「あ、晴香」
晴香の声に、宗悟が笑顔で晴香を見上げた。隣に美緒もいるのに気づき、小さく会釈をする。
「また自主トレ?」
「うん。今日は部活がないから」
「そっか、がんばってね」
晴香がそう言って、二人はその場を立ち去ろうとした。
「あ、晴香!」
宗悟が呼び止める。「何?」と振り返ると宗悟が立ち上がり、服に着いた汚れをパタパタとはたいた。
「今度、試合があるんだ」
「…また?」
「今度のは、中学時代のOB戦でさ」
「OB戦?」
「うん。荒木に雪辱を果たすチャンスだから、気合い入ってるんだ」
「…あらき?」
「こないだ、歓迎試合で俺が戦った相手」
「…あぁ、あの人」
そういえば同じクラスだったな、と思い出した。
「晴香に、見に来てほしいんだ」
晴香が「えっと…」と少し迷う。
「晴香が来てくれると、気合い入って、もっと頑張れると思うんだ」
「うん…」と頷く。
「予定、確認してみるね」
晴香がそう答える。宗悟は「うん、ありがとう!」と笑顔を見せた。
「…よし、じゃあ、走ってくるわ!」
そう言うと、正門から外に出て、颯爽と走り出した。晴香と美緒がその背中を見送る。
「…行ってあげるの?」
美緒が聞く。「うん…」と曖昧に頷いた。
「勝つところ、見たいもんね」
「…うん」
宗悟のOB戦の日。晴香は市民体育館にいた。
「勝つところ、見たいもんね」
美緒に言われた言葉が頭に残っていた。宗悟が試合に勝つ場面を想像すると、やはり、その姿は見たいと思う。その宗悟への期待が、晴香の足を向かわせた。
中学のOB戦は、市民体育館の地下にあるホールCで行われる。晴香が階段を下った。
ホールCは観客席から競技場を見下ろす形になっている。晴香が最前列に空いている席を見つけ、そこに座った。
「…あ、いた」
競技場を見下ろと、宗悟の姿を見つけた。そして、ちょうど名前を呼ばれ、競技場の真ん中へと進んでいた。
「がんばれ」
晴香が小さくエールを贈った。
「やめっ!」
審判をしていた、他校の先生が試合を止める。
「荒木!」
その判定に、荒木を応援していた友達や同級生が盛り上がる。宗悟は、雪辱を果たせなかった。
「…はぁ」
晴香の口から、小さく溜息が漏れる。
晴香が席を立った。競技場では次の試合が始まり、その試合展開に観客席が盛り上がっている。その熱気を背中に感じながら、外に出た。
「…のどかわいたな」
体育館のロビーにある自販機に向かう。小さなペットボトルのオレンジジュースを買った。
「…晴香」
降りてきたジュースを取り出す晴香の背中に声をかけられた。振り返ると、宗悟がいた。
「来てくれてたんだ」
「…うん」
そう言ったきり、何を言えばいいかわからなくなった。間を繋ぐために、ペットボトルの蓋を捻り、ジュースを飲む。
「俺も、のどかわいちゃって」
そう言って、スポーツドリンクを買う。蓋を開けると、勢いよくグビグビと飲み込んだ。
「…お疲れ様」
晴香が、ようやくそう言えた。宗悟がペットボトルから口を離す。
「ありがとう」
そう言って、口を拭った。
「…でも、よくがんばったね」
一瞬、二人の目が合う。
「…うん、でも、勝てなかった」
そう言うと、もう一度ペットボトルを傾けた。
「まぁ、また頑張るよ」
そう言って、額の汗を拭った。宗悟は、笑顔だった。努力し、スポーツをして流した汗は、その笑顔にとてもよく似合っていた。しかし、努力の実らなかった人間の表情としては、不釣り合いな気がした。
「…落ち込まないんだね」
晴香が言う。
「落ち込んでる暇があったら、もっと努力するよ」
そう言って、また笑った。
「…がんばってね」
晴香は、それだけ言って、その場を離れた。
「ありがとう!」
背中から、そんな声が聞こえた。
自分の贈ったエールと、相手の返事の大きさに大きな差を感じ、その違和感は、晴香の体温を下げていった。