「オレンジペコー」第6話。
夕方、店の電話が鳴った。聡が帰った後しばらくして、さやかが遊びに来ていた。「ごめんね」と手で合図をすると、郁実は受話器を取った。さやかがカップを両手で持ち、「ずずっ」とコーヒーをすすった。
「はい、『フラワーショップいくみ』はウチですが…はい…はい…」
さやかは、「いつもの注文の電話とは違うみたいだな」と様子を見守っていた。
「警察!?」
郁実が驚きとともに放った言葉に、さやかも驚いた。
「はい…はい…知ってますが…」
さやかは、音が立たないように静かにカップを置いた。
「…はい…はい…。え?…そうですか…」
郁実が、さやかを見た。さやかは、手で「帰った方がいいですか?」と合図したが、郁実も、手で「いてくれていい」と合図した。
「そうですか…。はい…。いや」
そこで、郁実の目に、わずかに迷いが見えたのを、さやかは見逃さなかった。
「俺が、伝えます」
郁実はその後、一言二言電話口で話すと、受話器をおろした。そして、険しい顔になり、目を閉じると「ふう~」と大きな息を吐いた。心の中で、何かを整理しているように見えた。さやかは黙ったまま、郁実の言葉を待った。
「聡さんが…美雪さんの旦那さんが、事故にあった」
「え…」
「車に撥ねられて…即死だったって」
さやかは、何も言えなかった。
「携帯が、事故で大破してて…連絡先がわからず…。聡さんが買ってった花束に挟んだ店のカードの番号を見て、電話してきたんだって…」
郁実が「ふぅ」と小さく息を吐いた。
「今から、美雪さんに伝える」
さやかが小さく頷くと、郁実が受話器をとった。が、耳元まで持っていく前に、受話器をおろした。
「…直接行った方がいいか」
一瞬、郁実の目が泳いだ。その目を見て、さやかは初めて、郁実に対して「心配」を覚えた。郁実が、一度裏に入り、エプロンを脱いで、上着を着てきた。さやかも椅子から立ち上がった。
「私も、行きます」
郁実は、空中を見つめたまま、少し、黙った。
「…ありがとう」
そう言われ、さやかが「はい」と返事をし、二人で店を出た。太陽は出ていなかったが、雨は止んでいた。灰色の空気の中、二人は美雪の家まで歩いた。
道中、さやかが見た郁実の顔は、緊張していた。この人は、きっと今まで、こうやって生きてきたのだと思った。警察から電話がかかってきた時、美雪の電話番号を伝えればいいだけの話だ。でも、そうしなかった。自分で電話で伝えるという事もできた。一度受話器を上げたのは、そうしようとしたのだろう。でも、受話器はそのまま下げられ、直接伝えに行くという選択をした。少しでも、美雪の心の負担を軽くするためだ。美雪が悲しんだとき、すぐにフォローが出来るようにだ。きっと、聡が事故にあい、まだ、意識があるという状態なら、一刻も早くと、電話をかけただろう。でも、そうしなかった。そこには、ある種の残酷な判断があったのだ。
きっと今までも、こうしてきたのだろうと思った。誰かを悲しませないために、誰かの心の傷が出来る限り小さく済むように、誰かの負担が少しでも軽く済むように、自分の心をすり減らしてきたのだと思った。
「自分も行く」と言った時、郁実は「ありがとう」と答えた。その返事は、さやかの期待通りでもあり、意外でもあった。「いや、大丈夫だよ、ありがとう」と、やんわりと断られる事も、予想していた。しかし、そうではなかった。今から向かう先は、この人が人の力を必要とする場所なのだと、さやかは、気持ちを引き締めた。
美雪の住んでるマンションの大きな正面玄関まで着くとパネルで美雪の部屋番号を押し、美雪の部屋を呼び出した。
「はーい」
美雪の声が聞こえる。
「郁実です」
「あら、どうしたの?」
「ちょっと、お話、いいですか?」
「いいわよ、ちょっと待ってて」
マンションの大きなドアが開いた。
「いま、行きます」
「はーい」
美雪がインターホンの受話器をおろす音を聞いて、二人は開いたドアをくぐった。その後、エレベーターで美雪の部屋がある階まで上がる。美雪の部屋は三階にあった。三階ならば、階段で上がった方が早い。しかし、今日はエレベーターを選んだ。その選択は、郁実の気持ちを表わしていた。
エレベーターが三階にたどり着き、美雪の部屋の前まで来た。郁実が、一呼吸置く事もなくインターホンを押した。
「はーい」
美雪がドアを開けた。ちひろと手をつないでいた。ちひろの姿を見て、郁実の心がぐらついた。
「あら、さやかちゃんまで」
「こんにちは」
さやかが小さくお辞儀をした。
「…どうしたの?」
郁実は、わかりやすい。郁実の様子に、美雪も少なからず緊張した。
「ちょっと…」
と、郁実がちひろを気にしたのを、美雪もさやかも気づいた。
「ちひろちゃん、お姉ちゃんと一緒にあそぼっか」
さやかがそう言って、「うん!」と答えるちひろの手を引いて家の中に入っていった。さやかが美雪と目を合わすと、美雪も「よろしくね」という意味で頷いた。郁実は、さやかがいてくれて本当に良かったと思った。郁実が、一歩家の中に入り、ドアを閉めた。
「…どうしたの?」
さっきよりも、少し、小さめの声だった。
「実は…」
郁実が話し出した。さやかが一瞬、玄関の方を気にした。ちひろが、「なにしてあそぶー?」と尋ねた。さやかは、ちひろを見て微笑むと、「抱っこごっこしよっかー」と言い、両手を広げた。ちひろが「うん!」とさやかの胸にとびついた。さやかは、ちひろを思いっきり抱きしめた。ちひろは「きゃー」と声を上げたが、さやかがちひろの頭を自分の胸におしあてて、その声が外に漏れないように、外の音が、ちひろの耳に入らないようにした。その時、美雪も、郁実の胸でちひろと同じ姿になっていた。静かな、静かな時間だった。
「郁実…」
「はい」
「どうして郁実はそんなに強いの?」
「え?」
「なんで聡はこんなに弱いの?」
「美雪さん…」
「なんで?車に轢かれただけよ?どうして?たかが車よ?どうして?なんで?なんで聡はこんなに弱いの?」
「ずっとそばにいるって言ったじゃないのよ…」
その後、美雪は言葉にならない声をあげて泣き続けた。美雪が最後に呟いた一言が、郁実の耳に重たく残った。
それからの時間は、あっという間に過ぎていった。通夜や葬式には、郁実も花屋として手を貸した。美雪は、ちひろの前では、気丈にふるまっていた。ちひろも、なんとなく状況は理解しているようで、終始おとなしく、お利口にしていた。色んなことが落ち着いてから、郁実はあの日、聡が買って行った花束を新しく組みなおし、美雪に届けた。
「美雪さん、これ…」
「なに?」
「あの日、聡さんが、俺のとこに買いに来た花束です。『美雪さんが喜びそうな花』が、注文でした」
「そう…ありがとう」
美雪が、花束を抱きかかえ、眺めた。
「こんな素敵な花束、見た事ないわ」
「こないだは、ありがとう。本当に助かった」
店に来たさやかに、郁実がお礼を言った。さやかは「あぁ、いえ…」と右手を小さく振った。
「まだ、落ち込んでますか?」
さやかが、差し入れに持ってきたコンビニのプリンを食べながら言った。
「うん…。ちひろちゃんの前だと、元気に見せてるけど…まだね」
そう言った郁実の顔を、さやかが少しの間見つめたあと、「…あぁ、ちがいます」と首を横に振った。郁実が「ん?」とまゆを上げた。
「お姉さんじゃなくて、郁実さんが」
そう言われ、郁実は「ははは」と笑った。
「さやかちゃんは、鋭いなぁ」
郁実がコーヒーを淹れて持ってきた。さやかはすぐに砂糖を二本入れた。
「私が鋭いんじゃなくて、郁実さんがわかりやすいんです」
郁実は、美雪とこの子が、なんだか似てきているような気がした。
「あの人にも言われるなぁ、そんなこと」
「お姉さんですか?」
いつの間にか、さやかは美雪のことを「お姉さん」と呼ぶようになっていた。
「うん。昔っからずっとだよ、『本当にわかりやすい』って笑われる。そんなに顔に出てんのかな」
「顔っていうか、全身から出てますよ、オーラが」
郁実はまた、「ははは」と笑った。「似すぎじゃないか?」と思ったが、口には出さなかった。
「で、どうかしたんですか?」さやかがコーヒーをすすった。
「いや、どうかしたっていうか…どうもしないっていうか…」
「何も変わってないってことなんですね」
「うん。美雪さん、ちひろちゃんの前では気張って笑顔なんだけど、でも、一人になると悲しそうな顔しててさ。ちょっと、見てられなくて。元気出してとも言えないし」
「そうですね…でも…」
「ん?」
「何とかできるのは、郁実さんじゃないのかも」
「そっか…そうだよなぁ…」
郁実が悲しい顔をし、さやかが慌てた。
「あぁ、いや、郁実さんが頼りないとか、そういう意味ではなくて」
「あぁいや、わかってるよ、ありがとね」
「でも、それこそ、お姉さんの言う通りなんだと思うんです」
「あの人の言う通り?」
「お姉さんのよく言う、『自分の周りには、幸せが必ずある』ってやつです」
「ふむ…」
「きっと、今度は、お姉さんが自分で気づかなきゃいけないんですよ。自分にある幸せに」
「なるほどね…。そうなのかもなぁ…」
「周りは、見守るしかできないんじゃないでしょうか。ちょっと冷たいかもしれないですけど」
さやかがコーヒーをすすった。郁実も「冷たくなんかないよ」とコーヒーをすすった。
「今の言葉で、俺の悩みは少し、溶けたからね。さやかちゃんは、やっぱり、優しいよ」
そう言って笑った。さやかは「なら、いいんですけど…」と照れくさそうに笑った。
「自分で気づかなきゃいけないかぁ…」
さやかが帰ったあと、郁実は、店の前に広げている鉢植えの花に水をやりながら、ぼやっと考えていた。目の前には、たくさんの花が咲いている。ちひろは、これを「お花畑」と表現した。空は曇っていた。花には、ありがたくない天気だ。花は、人の人生のあらゆる場面を、脇役として彩る。そして、その花は、水や日光から栄養をもらい、キレイな花を咲かす。生き物は必ず、誰かから、何かから支えられて生きている。人も、花も同じだ。一輪、枯れかけている花をみつけた。その花に手を触れ、観察してみた。元気のない人間というのは、いわば、枯れかけの花のようなものだろう。この花に、水を与えず、日の光にも当てず、「自分で気付け」と、見守るという事か。
「それでも、なんとかしてあげられないかなぁ…」
そう呟いて、その花に水を与えようとした。しかし、じょうろに水が入っていなかった。
「そっか…」
今の自分は、水を持ってすらいないのだという事実を突き付けられた。しかし、なんだかそれは、お花からも「そっと見守ってあげなさい」と言われている気がした。
郁実は、一つ、息を吐いた。
「ふぅ」
そして、お花の言う事に従う事に決め、空のじょうろを手に持ち、店の中に入った。郁実の背中で、雲に覆われていた太陽が、少しずつ顔を出し始めていた。
「すみません」
「はい、いらっしゃい。…あら」
花屋にやってきたのは、ちひろだった。郁実は「どうしたの?ひとりで来たの?」と言いながらちひろの目の前にかがんだ。
「あのね、お花ください」
「いいよ。どんなお花?」
「どんなお花ですか?」
「え?」と郁実が少し戸惑いながら笑った。すると、ちひろが言った。
「お母さんが元気になるお花は、どんなお花ですか?」
「…あぁ」と郁実が返事をした。
「あのね、お母さん、元気がないの。お母さんにね、元気だして欲しいの。だからね、お母さんが元気になるお花、ください」
「そっかぁ…」
と郁実が立ち上がって、ケースの扉を開け、中の花を見た。その時、さやかの言葉を思い出した。
「きっと、今度は、お姉さんが自分で気づかなきゃいけないんですよ。自分にある幸せに」
その言葉が頭をよぎり、郁実は、そばでちょこんと立っている小さな女の子の顔を見た。
「美雪さんにある幸せか…」
そして、ケースの扉を閉めると、また、ちひろの前にかがんだ。
「お花よりも、お母さんが元気になるおまじない教えてあげる」
「お花よりも元気になるの?」
「うん。なるよ」
「お花屋さん、知ってるの?」
「知ってるよ。あのね…」
「ただいまー」
ちひろが家に帰ると、美雪は「おかえりなさい」と笑顔で迎えたが、少し無理した笑顔だった。ちひろが、美雪の前に小走りに「とととっ」と近寄った。
「お母さん」
「ん?」
「あのね」
「うん」
と美雪がちひろの前にかがんだ。ちひろが少し、照れくさそうにした。
「見てー」
そう言うと、ちひろは両手を広げ、ニッコリと笑顔を作った。その笑顔に、美雪は自然と笑顔になった。
「なあに?」
「ちひろちゃんを見てー」
「ふふ。見てるわよ。とっても可愛いわ」と、美雪がちひろの頭をなでた。ちひろが「えへへ」と恥ずかしそうにした。そして、「あのねー」と言うと、「うん」と美雪が返事をした。
「ちひろちゃんはね、お母さんが大好きなの。だからね、ずっとお母さんのそばにいるの。だからね、お母さんの幸せは、ずっとここにあるよ」
そう言うと、またニッコリと笑顔を作った。
「その目で、しっかり見て」
ちひろのその言葉が耳に入ると、美雪の胸に、さまざまな感情が湧き上がった。しかし、それはどれも、幸せな感情だった。
「ね、お母さん」
とちひろが言うが早いか、美雪がちひろを「ぎゅっ」と抱きしめた。美雪は、泣いていた。
「お母さん?」
美雪は、泣きながら、「うん…うん…」と頷いた。
「そうだね。そうだね。ちひろちゃんがいるもんね」
「そうだよ、いるよ」
ちひろも、美雪を抱きしめ返した。
「そうだね。そうだね」
美雪が大きく鼻で息を吸った。すると、ちひろから花の香りがした。それで、ちひろがどこにでかけ、何をしていたかがわかった。
「本当に、わかりやすいなぁ」
美雪が小さくつぶやいた。
「お母さん?」
「んー?」
「いま、幸せ?」
「とっても幸せよ」
「どれぐらい?美味しい紅茶を飲んだときぐらい?」
「ふふふ」
美雪が笑った。
「そんなもの、くらべものにならないわよ」