「オレンジペコー」第1話。

 (あらすじ)高校生の郁実は病気で働けない父親と二人で暮らしている。苦しくても泣かないと決める心に、狂暴な人格が生まれてしまう。郁実の支えは、姉として慕う美雪への憧れだったが、落ち込む郁実を美雪は「幸せは必ずある」と突き放す。
高校を卒業後に開いた花屋で郁実はさやかと出会う。
ある時、美雪が夫と喧嘩をする。悲しむ娘に、美雪は「あなたには幸せがある」と言って聞かせる。郁実はその無責任な態度に怒り、狂暴な人格で責めてしまう。落ち込む郁実に、さやかが泣く事を許す。
その後、夫が事故で他界し、美雪がふさぎ込む。美雪の娘は郁実から助言をもらい、「おかあさんの幸せはここにあるよ」と自分の姿を見せ、美雪は笑顔を取り戻す。

 少年が、ガスコンロのスイッチを入れた。
ちっちっちっちっち…ぼっ!
切れかけの電池の入ったコンロは、火のつきが悪かった。火がつくのを確認すると、「あつっ。あっつ!」と言いながら、少し錆びついた、網目の細かい金網の板をコンロのゴトクの上に乗せた。
「この作業はいつまで経っても慣れねぇな」
と、笑いながら火に触れた人差し指を水で冷やした。金網の板の、炎が触れた部分が六ケ所赤く光り、小さな丸を描いた。その中で一番光の強い丸の上に、粘土でつくられた指輪を置いた。これを熱すると、純度の高い銀の指輪が出来上がる。
「まぁた、粘土遊びか」
少年の父親がふすまを開けた。平日の朝なのに、ダルダルのスウェットの上下を着た、だらしない恰好だ。少年は父親を無視した。
「夜中っからゴソゴソうるせぇんだよ。昼間にやれ」
少年は、「昼間は学校行ってんだよっ」と思ったが、言わなかった。父親には反応せず、頭上の戸棚の戸を開けた。身長の低い少年は、目いっぱい背伸びをすると、奥の方にしまってあるボウルを取り出し、水をはった。父親は冷蔵庫を開けると、缶ビールを取り出し、飲み始めた。少年は、いつものことなので別に気にしなかった。頃合いを目視で確認し、火を止めた。ピンセットを使い、指輪をコンロから上げると、ボウルに溜めた水に浸して冷ます。水から引き上げると、布巾で丁寧に水気を取り、そのあとガーゼにくるんで、その上からタオルで包んだ。そして、そのまま自分の引き出しにしまった。念のため、引き出しには鍵をかけた。仕上げの作業は学校から帰ったらやることにした。
「別にとりゃしねぇよ、んなもん」
鍵をかけたのをめざとく見つけた父親がビールをかっくらいながら言い、最後に「ばーか」と付け足した。少年はこれも無視し、教科書の入ったリュックサックを右肩にかけ、学校へ行くために玄関へ向かった。
「粘土遊びでメシが食えるか」
そしてまた、「ばーか」と最後に付け足した。
「何もしねーくせにメシ食ってるやつに言われたくねーよ」
少年が初めて父親に返事を返した。が、視線は自分の足元に向いていて、父親の顔は見なかった。
「しょうがねぇだろ、病気なんだから」
「なんでもかんでも病気を言い訳にしやがって」
「あぁ?」
父親は、少年に攻撃的な視線を向けたが、少年はそれを無視して玄関を出た。

 「さっむ」
季節は冬。少年は、白い息を吐きながら両手を上着のポケットにつっこんだ。
 
 「郁実(いくみ)、おっはよ!」
ネイビーのスーツに、ベージュのコートを着た女性が後ろから少年に声をかけ、肩をぽんと叩いた。少年の通学路は、学校に向かう学生や、仕事に行くために駅に向かう大人で、少し混雑していた。女性は駅に向かっていた。
「あぁ、美雪さん、おはようございます」
「あ、イライラしてるでしょ?」
美雪が、郁実の顔を見るなり指さして言った。郁実は、「そんなことないですよ!」と笑ってごまかしたが、美雪は「ほんとにわかりやすいなぁ~」と笑った。
「もう、顔を見れば一発よ」
「あ!俺の顔がイカツイのバカにしてるでしょ!」
美雪が「ははは」と笑った。
「ちがうわよ。そんなんじゃないわ。ほら~、そうやってつっかかってくるじゃない。やっぱり機嫌悪いじゃないの~」
「別に、機嫌悪くないですって」
「もう、背中から出てたわよ、イライラオーラが」
「なんですか、それ」
「あなたが今、全身から出してるオーラよ」
「背中だけじゃないんですか」
「ふふふ」と美雪が笑った。
「あのねぇ、そんな暗いオーラ身にまとってたら、幸せ見逃しちゃうわよ?」
「はい?」
「あのね、人の周りには必ず、幸せがあるの。でも、それがいくらあったとしても、周りが暗くちゃ、見つけられないでしょ?」
「はぁ」
「ね。だから、自分の周りを明るくして、幸せを探しなさい。そして見つけなさい」
「あぁ…はい」
「いい?その目でしっかり見るのよ?」
「はい…」と言いつつ、郁実は美雪の顔を見つめた。
「私も、この目でしっかり見つけてやるわ」と、美雪は両手の指でメガネをつくった。
「でも、幸せって、目に見えないこともあるんじゃないですかね?」
郁実がそう言うと、美雪は「そんなことないわよ」と、ゆびメガネを外した。
「家族だったり、友達だったり、好きな人だったり…。自分だけの宝物だったり、お金って言う人もいるかもしれないわ。とにかく、幸せってのは目に見えるものよ」
「私は、目に見えるものしか信じないわ」と、長い髪の毛を揺らした。
「…でもさっき、俺のオーラがどうとか」
郁実にそう言われた美雪は、照れくさそうに笑うと「あんたのイライラオーラは目に見えるぐらい濃いのよ!」と、郁実の背中をバシッとひっぱたいた。
「いって!」
「ほら、イライラオーラを飛ばしてあげたから、今日一日頑張んなさい!」
「じゃあね」と、背中をさすっている郁実に手を振り、背中を向けると、小走りに去って行った。学ラン姿の高校生と、それと手をつないだセーラー服の女子高生や、おしゃれな仕事スタイルでハツラツとした女性。くたびれたスーツに、それには似合わない派手で真っ赤なネクタイをつけた中年のサラリーマンなどの間を軽い足取りですりぬけて、背が高くスラッとしたスタイルの男性の所までたどり着くと、肩をたたいた。
「聡!」
「おぉ、おはよう」
 その男性は、さわやかな笑顔で返事をした。二人は、一言二言話すと、美雪が郁実を指さした。聡が郁実に右手を挙げて挨拶し、郁実がそれに会釈で応えた。

 「へ、ほめーよー」
学校での昼休み。郁実は仲のいい友人と昼食をとっていた。友人は、母親の作った弁当を食べ、郁実は、購買で買ったパンをかじっていた。友人が食べ物を口に入れたまましゃべるので、「飲み込んでから喋れ」と注意した。
「で、おめぇよぉ」
「ん?」
「お前、まだ空手部入る気にならねぇのかよ」
この友人は空手部所属で、何度も郁実を部に入るように誘っていた。が、郁実は首を縦には振らなかった。
「まだっつーか、ずっと入る気にはならないよ」
「なんでだよ、そんなに強いのによ」
「やだよ、そんな余裕は金にも時間にもないよ」
「お前だって、強いやつに勝ちたいって思うだろうよ」
「思わないよ、別に」
「試合とかで、強いやつを倒した時って、ものすごく嬉しいぜ?そういう感動を味わいたいと思わないのか?」
「だから、強いやつに勝ちたいわけじゃないんだよ、俺は」
「そうかなぁ?お前には戦う人間の血が流れてると思うぞ?」
「なんだ、そりゃ」
「だってよ、お前、うちの主将ぶっ倒したじゃねぇかよ」
「それは、あいつが俺のバイト先のお花を倒して、その上ふんづけたからだろ!」
「あんときのお前は怖かったぜぇ~。まじで、主将殺されんじゃねぇかと思ったもん」
「殺すわけないだろ!」
「いや、でも、お前の目からは完全に殺意が出てたぜ。数々の相手と試合をしてきた俺にはわかるんだよ」
「もう、やめろよ」
郁実が少し、嫌な顔をした。友人は、そんな郁実の様子もお構いなしに話をつづけた。
「それに、戦意喪失してる主将をお前は殴り続けるしよ」
「やめろって」
「俺が止めに入らなきゃ、やばかったもんな!マジで主将死んでたと思う」
「殺さないよ。もう、やめろよ、その話」
「それによぉ、おめぇ…」
「ん?」
「殴ってるとき、楽しそうだったぜ?」
友人はふざけて笑っていたが、郁実は真剣な顔だった。
「…笑ってたか、俺」
「いや、笑ってはなかったけどよ、なんかこう、相手がダメージを負うことに手応えを感じてるような、それを喜んでるような…そんな雰囲気を感じたけどな」
「…そうか」
「あれ以来、主将は完全にお前にビビッてんもんな!」
「ふ~ん」
「『あいつは怖い、あいつの目はもう見たくない』ってしきりに言ってたもんな」
「貧弱な主将だなぁ」
「いや、あれでも結構強いんだぜ?俺は嫌いだけどな」
「嫌いなのか」
「だからよ、お前が入ってくれればよ、主将、うちの部やめると思うんだよ。だから、お前が入って、主将追い出してくれよ!」
「おめー、それが狙いなんじゃねーか!」
そう言うと、二人で笑った。郁実は、やっと笑う事が出来た。笑いながら、友人が「頼むよ~」と言ったが、郁実は「やーだよ」と断った。

 「どうですかね?」
「んーーーーーー?」
放課後、郁実はアクセサリー作りを教えてくれる師匠の工房に来ていた。師匠は、ひとりで工房を開いている職人だったが、さまざまなお店から仕事の依頼のある売れっ子の職人だった。郁実も、将来は自分でアクセサリーのデザインをしたいと思っている。郁実は、学校が終わるとバイトに行くか、この工房に通うのが毎日の日課だった。
「やっぱ、ハの字の癖が抜けてねぇなぁ」
「あぁ…」
指輪づくりは、先端から末端にかけて徐々に太くなっていく棒に、細いひも状にした粘土を巻き付ける作業から始まる。その巻き付け方が下手だと、指輪が、指に入れる方向に開いてしまう。それを用語で「ハの字」と言った。郁実はその作業が苦手だった。
「お前さ、型使えばいいじゃん」
ハの字を防ぐために、サイズごとに分けられた円柱型の道具もあるのだが、郁実はそれを使う事を良しとしなかった。
「いや、あれで慣れちゃうと…。細かいサイズに対応できなくなっちゃうので…。指のサイズは、人それぞれですから…」
郁実がそう言うと、師匠は「こいつらしいなぁ」と思い、ニコッと笑った。
「でも、いぶし加工はうまくなってるよ。キレイに彫れてるし、色にムラもない」
「ほんとですか!」
指輪に黒い模様を付けるいぶし加工も、郁実が苦手としていた作業だった。粘土が乾燥した状態のときに、やすりなどで表面を彫り、粘土を焼いたあとで硫黄に浸して黒く染める。そして、その状態で表面を磨くと、彫った部分だけが黒く残り、模様となる。
「あぁ、あとはデザインのセンスだな」
「がはは」と師匠が笑った。郁実は、「かっこいいと思うんですけどねぇ」と口を尖らせた。
「いや、かっこいいよ。かっこいいと思う。ただよ、なんか、キレイすぎるんだよなぁ…」
「キレイすぎる?」
「うん。なんか、カワイイぞ。女の子が好みそうだ」
「あぁ~~~…」
「デザインはいいんだけどよ、お前っぽくねぇんだよな」と言うと、師匠は「がはは」と笑った。
「どういう意味ですか!」と言いつつ、郁実は少し嬉しそうだった。

 「お前、なんでアクセサリーつくりたいの?」
道具のあと片づけをしている郁実の背中に、師匠が質問を投げかけた。ただ、なんとなくだった。
「んーーーー・・・・?」
郁実は、少し考えた。それは、その疑問に対して考えてるのではなく、どう説明しようかという時間だった。郁実は、たどたどしく話し出した。
「いい、脇役…?だと思うん、ですよ」
「脇役?」
「はい。アクセサリーは、つける人が主役だとしたら、脇役です。でも、指輪ひとつ、ペンダントひとつあるだけで、その主役をものすごく魅力的にみせたりできる。そんな、脇役な感じがものすごく好きなんです」
「ほぉ・・・」
「結婚式とかでもそうじゃないですか。指輪なんてただの脇役だけど、結婚式で一番盛り上がるのって、その脇役が登場する場面じゃないですか。その名脇役っぷりがすげぇかっこいいと思うんですよね」
そう、笑顔で話す郁実を、師匠は微笑みながら眺めていた。
「なんか、お前らしいなぁ」
「なんですか、それ」
「いや、なんとなくだけどよ」
「でもよ」と師匠は続けた。
「でもよ、お前自身は、誰かの脇役で終わろうなんて考えんなよ。ちゃんと、自分が主役の人生を生きなきゃいけねぇぞ」
「ははは…」と声を漏らしたあと、片づけをしていた郁実の動きが少し止まった。
「でも、それも悪くないと思うんですよねぇ」
そう言うと、郁実は笑った。それを見て、師匠は「あきれたやつだな」と言うように、微笑みながらため息を吐いた。

 駅から、郁実たちの住む家のある住宅地に向かう道の途中に、自販機と古びたベンチだけがポツンと佇む空き地がある。空き地なのに、自販機の中身は定期的に補充されていた。この空き地は、夏場は雑草がひどく生い茂る。冬になった今でも草は残っていて、地面を覆う絨毯のようになっていた。郁実は、工房やバイトの帰り道に、一日の終わりの缶コーヒーをこの空き地で飲むのが好きだった。
「はぁ~、あったまる」
「ずずっ」とコーヒーをすすると、体中に熱がいきわたるのを感じた。
「お、きれーな三日月出てるなぁ」
その日は、いつもより長くその時間を楽しんだ。

 次の日。

「…あれ?」
仕事からの帰り道。聡が、道の上で足を止めている美雪を見つけ、近づいた。
「どうした?」
「…あぁ、聡。いや、ちょっとね」
と、美雪が道の向こう側にある花屋を指さした。
「…花屋?」
「そー。あの子がバイトしてんのよ」
「…あ、ほんとだ。へー。あ、これ」
聡が美雪に缶コーヒーを渡し、自分の缶を開けた。美雪は「ありがとう」と受け取ったが、飲もうとはしなかった。
「あの子、頑張ってるなぁ」
「な。でもなんか、楽しそうだ」
「あの子、お花好きだからね」
「へー…。あいつ、なんか、他にもやってなかったっけ?」
「そっちはバイトじゃなくて、習い事というか…。アクセサリーのデザイン習いに行ってるのよ」
「アクセサリー?」
「うん。将来、自分でデザインしたいんだって」
「へー。すごいなぁ、毎日毎日。よく頑張るなぁ。家帰って休まねぇと体ぶっ壊れるぞ」
「うーん…。その家があんまり休まらないのかも」
「…そうなの?」
「あの子のお父さんが、ね」
「…問題ありなのか?」
「うーん、病気、らしいんだけど…」
「体、弱いのか?」
「っていうより、精神的なものらしいんだけどね。でも、うーん、どうなんだろ」
「そういや、あいつのお母さんって見た事ないな」
「昔、まだ、あの子が中学生だった頃、実家のある田舎に帰っちゃったんだって。妹さん連れて」
「そうなのか…」
「まだ中学生だったから、自分は働けないから、お母さんの負担になるって、あの子はついて行かなかったらしいわ」
「そうか…。苦労してんだな」
「本当はついていきたかったんじゃないの?って聞いた事もあるんだけど、『俺にはそれしかできないから』って」
「それしか?」
「うん。お母さんに負担をかけないようにする事しか、出来ないからって」
それを聞いて、聡はそれ以上聞くのをやめた。それ以上、何も言葉を続けられなかった。
 すると、急に美雪が聡の手を握ってきた。急なことに、聡は戸惑った。
「うぉお、どうした?」
「静かにして」
美雪が静かに言った。少し怯えているようにも見えたその姿に、聡は余計に困惑し、小声で声をかけた。
「どうした?」
「花屋の脇のミラー、見て」
「ミラー?」
「変な人がいる」
「人?」
聡が、ミラーに目をやると、二人の後ろに、くたびれたスーツの中年男性が、二人からはちょうど死角になる位置でケータイを見ていた。ケータイを見ているが、そのフリをして、二人の様子をうかがっているようにも見える。
「…ストーカーか?」
「まだわかんない…。でも、なんか、見られてるような気はしてて…。それにあの人、朝も帰りも駅でよく見るのよ…」
美雪の手が震えだした。聡が、ストーカーに向かっていこうとした。
「ちょっと、やめて」
「大丈夫だよ」
「勘違いかもしれないし…。それに、こっちが勘違いしたって理由で逆上なんかされたら怖いわ。今日は、やめておいて」
怖がっている様子の美雪を見て、聡はそれ以上何もしなかった。
「今日は、このまま帰りたい」
美雪がそう言うので、聡は「わかった」とだけ言い、二人で歩き出した。

 「…ん?あれは、美雪さんと…」
花屋の外に出てきた郁実が、二人を見つけた。
「…ん?」
その二人の後に続く、くたびれたスーツで、それには似合わない派手な真っ赤のネクタイをつけた、中年のサラリーマンの姿も見ていた。
「…あいつ、なんか見覚えあるな」
郁実は記憶を巡らせたが、思い出せなかった。

 「おはよー」
「あ、おはようございます」
朝のいつものあいさつだった。しかし今日は、美雪の方からどんよりオーラが出ていた。
「…どうかしたんですか?」
「うん、ちょっとね…」
郁実の視界の端を、赤いネクタイがかすめた。
「ん?」
郁実はそっちに目を向けたが、もう見つからなかった。
「なに?」
と美雪が聞いたが、郁実は「いや、めちゃくちゃ美人がいて」とごまかした。「なによそれ」と美雪が少し笑った。その笑顔を見て、郁実は少し、ホッとした。
「じゃあね」
美雪が聡の元へと走り、いつものあいさつをして別れた。

 郁実はその日一日、朝の美雪の様子が気になっていた。いつも、「明るくなきゃ幸せを見逃す」と言っている人だ。その美雪がああいう状態になることは珍しい。郁実はそれが気になり、何をしても上の空だった。授業中、男性教師から「ぼーっとすんなー」と言われ、思わず「うるせぇ」と言ってしまう程だった。そのあと、めちゃくちゃ怒られたのだが。

 「あ、聡さん!」
花屋でのバイト中、店の前を通り過ぎる聡を見つけ、呼び止めた。
「ん?おー、少年。どうした?」
「あー、いや…」
「どうした?」
郁実は一瞬、この人に聞いていいのかどうか迷った。
「…あいつのことか?」
聡は、訝しる様子もなく聞いた。郁実は「はい…」と答えた。
「いや、あの、俺が気にする事じゃないのかもしれないですけど…」
「なんだ?言ってみろ」
「はい…」
郁実は、朝の美雪の様子が気になったことを尋ねてみた。
「なんだ、そういう事か。そんなもん、普通に聞きゃいいじゃねぇか」
「いや、おせっかいな事言っちゃったら悪いですし…」
「んなこと思わねぇよ。お前、いいやつだなぁ」
聡が笑った。その後、「いや、実はな…」と話し出した。
「ストーカー…」
「そうなんだよ。ただ、勘違いかもしれねぇって」
「そうですか…」
「今んとこ実害もねぇから、警察に言っても動いてくれないだろうし…」
「そうですね…あまり大げさにしてもって感じですよね」
「そうなんだよ。そうなんだけどよ、結構おびえちゃっててよ…」
「そうなんですか」
「あぁ。手ふるえてたよ」
「手が?」
「あぁ」
「そうですか…」
「それは、許せないですね」そう呟く郁実の目が、少し鋭い目になった。その目を見て、聡は、背筋がゾクッとする感覚がした。
「…ん?」
聡は、「優しくていいやつ」という印象を郁実に対して持っていた。その郁実の目から、そんな感覚を感じたことが信じられなかった。
「今日、美雪さんは?」
「…ん?」
「一緒じゃないんですか?」
そう尋ねた郁実の目は、いつもの「優しくていいやつ」の目だった。
「…気のせいか」
「はい?」
「いや、なんでもないよ。いつもは一緒に帰ってるんだけど、今日は遅くなるらしくてさ、だから、あいつの仕事が終わったら連絡くれることになってるんだ。そしたら、駅まで迎えに行くよ。俺は一回家帰って着替えようと思って」
「なるほど。その方がいいですね」
「うん」
「ちなみに、何時ぐらいになるかわかりますか?」
「終るのが九時ぐらいにはなるだろうっつってたな。だと、こっちに来るのは十時ぐらいかなぁ。最近は大体そんな感じ」
「そうですか、ありがとうございます」
「お前は、バイトは何時までなの?
「今日は閉店までなので、俺も九時までですね」
「そっか、大変だな、頑張れよ」
「ありがとうございます」
「おう、じゃあ、またな」
「はい、また」
そう言って、郁実が頭を下げ、聡は右手を挙げて挨拶をすると、帰っていった。

 結局、美雪から聡に連絡が入ったのは夜の十時だった。十一時に駅で落ち合うと、美雪は「遅くなってごめんね」と謝ったが、聡は「いいよ、気にしなくて」と笑った。二人は一緒に歩き出し、色んな話をしているうちに、郁実がバイトをしている花屋の前に差し掛かった。
「あいつ…」
「が心配してたぞ」と言おうとして、やめた。いやなことはできるだけ思い出させたくなかった。
「あの子?」
「うん。あいつ、今日もここで頑張ってたよ」
「そっか。ほんと、毎日よく頑張るわね、あの子」
「な。かっこいいよ、あいつは」
その時、聡が中年男性と「どん!」とぶつかった。
「あ、すいません」
と聡は謝ったが、ぶつかった中年男性が左手で聡の肩をつかみ、「ぐい」と押した。
「あ?」
「聡!」
美雪が叫んだ。中年男性の手には、刃渡り十センチほどのナイフが握られていた。
「おい、まじかよ」
聡は思わず後ずさりした。
「お前は邪魔なんだよぉ」
中年男性が不気味に言った。くたびれたスーツには似合わない、真っ赤なネクタイがやけに目についた。聡は、ナイフを警戒しながら、自分の肩にあるストーカーの手をどけた。
「うおっ!」
その瞬間、ストーカーが聡の腹に向けてナイフを突き出してきた。それを聡がギリギリでかわした。
「おいおい、しゃれんなんねぇぞ」
避けていなければ確実に刺さっていた、と思うと、聡はひるんでしまった。それが伝わってしまったのか、ストーカーが「にやり」と気味悪く笑った。
「聡!」
美雪が叫んだが、聡にそっちを見る余裕はなかった。ストーカーがもう一度「にやり」と笑うと、一歩前に踏み出した。その時、
「うわっ!」
ストーカーの上半身が急にのけ反った。
「え?」
見ると、郁実がストーカーの背中に飛び乗り、チョークスリーパーをきめていた。
「何だ、お前は!」ストーカーが叫んだ。
「お花屋さんだよ」郁実がストーカーの首を「ぐい」と締めあげ、自分の足を地面につけた。
「郁実!」
美雪が叫んだ。「聡さん!」と郁実が美雪の方を顎で示した。聡が美雪に慌てて駆け寄り、手を握った。美雪の手は震えていた。聡は「大丈夫、大丈夫」と、美雪を抱き寄せ、頭を自分の胸に押しあて、視界をふさいだ。
 ストーカーが背中にいる郁実をナイフで刺そうと右手を振り上げた。郁実は、刺される前に首からストーカーを横にぶん投げた。
「ぐぉっ」
ストーカーは唸りながらゴロゴロと転がると、すぐに立ち上がり、郁実にナイフを向けた。ナイフを目で確認した郁実が、ストーカーに向かって歩き出した。ナイフを見ても全くひるむ様子のない郁実に、今度はストーカーの方がひるみ、少し、後ずさりした。
「来るな!」
そう叫んで、ナイフを前に突き出した。しかし、郁実は足を止めなかった。
「刺すぞ!」
そう言って、郁実の目を見た。背筋に、「ゾクッ」と冷たいものが走った。
「くっそぉ!」
ストーカーがナイフを前に出して郁実に向かって一歩踏み出したが、その瞬間、郁実がストーカーの右手を蹴り上げ、ナイフを飛ばした。
「くそっ」
ストーカーがすぐにナイフを追いかけた。郁実もその後を追いかけた。もう一歩でナイフに手が届く、という所で、郁実が左手でストーカーの左腕を掴んだ。ストーカーの左腕に激痛が走り、思わず「ぎっ…」と声を出しながら、膝をついた。
「は、はなせ…!」
ストーカーが膝を地面につけたまま左腕をぶんぶんと振ったが、郁実の左手は離れなかった。
ストーカーは、「くっそぉ!」と体を伸ばして、近くに落ちていたナイフを右手で拾った。
「はなせよぉ!」
そう叫んで、右手に持ったナイフで郁実の左腕を刺した。「ズブリ」という鈍い音がした。しかし、郁実の力が弱まる事はなかった。
「くっそ!なんでだよ!」
と言いながら、郁実の左手にいくつも刺し傷を作った。が、全く離れる様子のない左手に、恐怖を覚えた。
「もう、何で離れねぇんだよぉ!」
ストーカーは泣きそうな顔になっていた。ターゲットを変え、顔を刺そうとそっちを見た。郁実の口元が、笑っていた。その顔を見たストーカーの背筋に、また冷たい感覚が走った。郁実が、右手でストーカーの顔面を殴った。「ガツン!」という音が響いた。
「ぐぁっ!」
倒れそうになったストーカーを、郁実がぐいっと引っ張った。そして、もう一度右手で殴った。「ガチッ!」という音がした。聡が、「郁実!」と呼んだが、聞こえてないようだった。また、「ゴツッ!」という音が響いた。
「おい!」聡が、今度は怒鳴るように言ったが、郁実の耳には届かず、また、「ゴッ!」という、骨と骨がぶつかる音がした。ストーカーは、気を失い、体がだるんとしていた。
「やめろ!」聡が叫んだ。その声に、美雪が「郁実?」と聡の胸から離れようとした。「見るな」と美雪をおさえた。もう一度、「ガゴッ!」という音が響いた。
「おい、郁実!」聡が叫んだ。その声を聞いて美雪が無理矢理、聡の胸から離れた。聡は「おい」と美雪の手を掴んだ。
「郁実ー!」
美雪が悲鳴のように叫んだ。その声が、郁実の耳に届いた。郁実が、ストーカーの腕を離し、美雪を見た。美雪は、聡と手をつなぎ、目に涙を浮かべてこっちを見ていた。
「郁実、もうやめろ」
聡がそう言うと、郁実がストーカーを見た。ストーカーは、ボコボコに腫れあがった顔で、地面に倒れていた。もう一度、郁実が二人を見た。聡が、「もう、やめろ」と言った。郁実が、「ちっ」と舌打ちをすると、「はぁ」とため息を吐き、ストーカーの顔の近くまで近づいた。
「おい」と、ストーカーの頭を足で軽く蹴った。ストーカーが目を開き、上体を起こした。郁実がストーカーの目の前にしゃがんだ。郁実を見たストーカーが「あ、あ…」と言葉にならない声を上げ、失禁した。「こ、殺さないで…」そんな言葉が、口をついて出ていた。郁実が、「もうあの人に近づくなよ?」と言いながら、近くに落ちていたナイフを拾った。ストーカーが、首をぶんぶんと大きく何度も縦に振った。
「次お前をみかけたら…」と、ストーカーの左胸に刃の先端を軽く当て、目をにらみつけた。
「わかるよな?」
そう言った郁実の目の冷たさに、ストーカーの恐怖は限界に達し、「う、うわああ~~~!」と叫びながら、走って逃げだした。郁実は、「はぁ」と立ち上がり、ナイフを放り投げた。
「郁実!」
美雪が郁実の名前を呼んだ。郁実が振り返った。
「美雪さん…」
美雪は、怯えた目をしていたが、聡の手をしっかりと握っていた。郁実が小走りに二人に近寄った。
「無事…ですよね?」
そう言う郁実は、いつもの「優しくていいやつ」だった。聡が「おう」と返事をした。
「今、警察に通報したからよ」
「ありがとうございます。捕まるといいんですけど…」
「交番も駅の近くにあるし…失禁したおっさんなんてすぐ見つかるだろ」と聡が半笑いで言った。「それもそうですね」と郁実も笑った。
「ちょっと!腕!」
美雪が大きな声を出した。郁実の左腕が血だらけになっているのに気付いた。郁実は、「ん?あぁ…」と、左手を開いたり閉じたりした。
「普通に動きますし…深くはキズついてないと思います。大丈夫ですよ」
冷静にそう言いながら、右手を左の脇に挟む郁実を見て、「こいつの『大丈夫』の基準はどうなってんだ」と聡は少し笑った。
「お前は、すごいな」
「え?」
「俺は、一歩も動けなかった。情けない話だが、怖かったんだ。刃物を見て、すっかりびびっちまった。こいつを守るために、何もできなかった。ほんと、情けない男だ」
と、聡が自分を嘲笑するように言った。
「何言ってるんですか」
郁実が微笑んだ。
「守ってたじゃないですか。しっかり手を握って。抱きしめて。守ってたじゃないですか」
郁実にそう言われ、気が付くと、聡は美雪の手を力強く握りしめていた。
「さっきのあなたは、美雪さんにとって、とても心強い存在だったと思いますよ」
美雪と聡が、お互いの目を見て、微笑みあった。郁実は、その二人の様子を見て、安心した。
「とにかく、病院行こう」
美雪がそう言い、三人で病院に向かった。



  


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