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神さまには、なれなかった。
神さまになりたかった。
とかくこの世は生きづらい。この世に生を受けてそれなりに時間が経つが、いままでずっと、そんな想いを抱えて生きてきたのだ。気付いたら、そんなわたしの周りにいるひとはみんな、生きづらそうなひとばかりだった。
どうしてこうなんだろう。いいやつなのに、やさしいやつなのに。そういうひとにかぎってどうしてみんな、こんなに生きづらいんだろう。神さまは不公平だ。器用な人間だけがするするっと、うまく人生を生き抜いていく。わたしたちはこんなにもがいているのに。
だから、どうか救いたかった。そういうひとたちを。
神さまが不公平なら、せめてわたしが足元を照らしてあげたいって。こんなわたしのことを好きでいてくれるひとたちに、なんとかして手を差し伸べてあげたかった。
わたしは、傲慢だった。
神さまにはなれなかった。手を差し伸べて、引っ張り上げようとしたつもりが脱臼させてしまったり、逆に一緒に落ちてしまったり。お弁当のから揚げをひとつ分けてあげたつもりが、気付いたらお弁当箱ごと取られていたり。
元々がそんなにできた人間ではないのだ。傷ついて。傷つけられて。自分がすきで始めたことだったのに、そんな風に受け取ってしまう自分がいやだった。ひとから見られている自分を「演じなければならない」のがもっといやだった。
こまったときの神頼み、とはよく言ったものだ。うまく行ったときに神さまに感謝する人間が、世の中にどれだけいるだろう。神さまはえらい。見返りを求めないから。文句も愚痴も、こぼさないから。
救ってあげたい。手を差し伸べてあげたい。
その気持ちは、とってもやさしい傲慢なのだ、といまはおもう。
「~してあげる」という表現には、持つものから持たざるものへ、という気持ちが隠れている。「救う」ということばもおなじだ。自分をすきでいてくれる、慕ってくれているひとをなんとかしたい、というわたしの気持ちは純粋なものだったとおもう。でも結果的に、わたしは彼ら彼女らを、見下していたのだ。悪意のない、純粋な、やさしい傲慢。
わたしも生きるのがへたな人間のひとりだ。そういう胸のうちの、自分でも気づかなかった部分が、もしかしたら伝わっていたのかもしれない。
ひとを救うことで救いを求めていた部分も、たしかにある。「だれかを救える自分」に救われたかった。なにが神さまだ。自分のことしかかんがえていない、ただの汚い哀れな人間じゃないか。こうしてあげたのに、どうして?って憤っては泣いている、ばかばかしくて滑稽な人間じゃないか。
神さまはひとりぼっちだ。ひととはちがう世界に生きていなければならない。神さまはきっと、ひとのことばにおびえない。言語がちがうからだ。感謝をされても、うらまれても、たぶんなにも感じない。もっている感情も、ひとのものではないはずだから。
わたしは神さまにはなれなかった。ひとに感謝をされたかった。うらまれたくなんかなかった。一緒に笑っていたかった。ずっとずっと、ただ一緒に笑っていたかっただけなんだ。
いまは救ってあげたいとも、救ってほしいとも、おもわなくなった。一緒に生きていけたらいいな、とおもうようになった。もし「助けて!」って叫んでくれたら、できる範囲で協力するよ。だから、わたしが叫んだときは、できる範囲でいいから手伝ってほしいな。よかったらたのむよ。って。
神さまになんか、ならなくたっていい。なろうとおもってなれるもんじゃない。わたしはひととして、みんなと笑いたい。みんなと泣きたい。一緒に生きていきたい。
神さまになりたいあなたが、どうか救われますように。
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