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マウンティングとわたしの地獄
その言葉はいつから市民権を得ていたのだろう。
名前のない「これ、いやだな」という行為が「マウンティング」と呼ばれるようになり、忌み嫌われるようになったのはここ数年のことだったように思う。なんか気付いたらそばにいた、それくらいの距離感である。
これが、ほんとうにいやなのだ。ちいさなことで差をつけて優越感に浸ってくる。ああもうくだらない。マウンティングなんかされても気にしない、という人間のできたかたもいるだろうが、決して気持ちよくなるひとはいない行為であるとおもう。
ただ、そう思っているはずのひとたちからも、なぜかなくならないなぁと感じているマウンティングがある。
「不幸マウンティング」だ。
みんなもやってないですか。つらいって泣いているひとに対して、内心「なによその程度で。こっちのほうがつらいっつーの」って不快におもうの。なんなら「もっとつらいひとは他にもいるよ」なんて声かけちゃったりして。たとえば、お仕事の話だったら「残業2時間!?こちとら毎日●●時間労働(ご想像にお任せします)じゃい。なにを甘えたことを」とかおもったりして。
わたしは、おもうぞ。わざわざ言いこそしないけど、めちゃめちゃおもうぞ。てめーそんくらいでなめたこと言ってんじゃねーぞって。ふざけんじゃねーぞ、なんつって。あれ、もしかしてそんな心のせまいことかんがえてるの、わたしだけかしら。
もし、こんなに心がせまいのは自分だけだったらどうしよう、とじゃっかん不安を覚えつつも、いやいや、きっとみんなそうにちがいない、わたしはひとりじゃない、人類皆友達!と信じて書き進めていくわけだが、これって一種のマウンティングではないだろうか。
だってそうでしょう。自分のほうがつらい、不幸だって決めつけてかかっているじゃない。そんなのマウンティング以外のなにものでもない。自分がなによりもマウンティングをいやがっているくせに、いったいなにをやっているんだ。わたしは自分のなかに芽生えた気持ちに気づいたとき、自己嫌悪におちいった。でも、そんなわたしを沼からすくいあげてくれたのは、友達の一言だった。
「つらさの許容量は、ひとによってちがいますから。」
彼女の言葉はすっと胸に入ってきた。自称・健忘症の人妻である彼女がそのことを覚えているかどうかは定かではないが、わたしはただ、その一言で救われたのだ。
わたしにはなんともないとおもうことでも、コップがいっぱいになってしまうひともいる。逆に、わたしがいっぱいだとおもっていることを、なんでもないとおもうひとも、きっとどこかにいるはずなのだ。
さいきんなら、TBS宇垣アナの放った「私には私の地獄があるし、あなたにはあなたの地獄がある」という言葉が共感を呼んだのは記憶にあたらしい。
笑ってばかりでなにも悩みなんかなさそうに見えるあいつも、いかにも「苦労なんてしたことございません」なんて言わんばかりの顔をしているあのひとも、その裏でじつはとんでもないものを見てきたのかもしれない。自分がいちばん不幸だって、いつから錯覚していたんだ?
ひとそれぞれ、コップの大きさはちがうし、中身もちがうのだ。色水かもしれないし、熱湯かもしれない。もしかしたらガソリンかもわからない。
なにもかもがちがうものを、無理にくらべることなんてできない。意味がないのだ。ただ、そのひとのつらいとおもう気持ちに、そっと寄り添うことができればすてきなことなんじゃないだろうか。
ただ、それはそれとして、いまでもたまーにふと「あっちの地獄のほうが、温度が低そうだなぁ」って心の奥底でおもってしまうこともあるんだよなぁ。変わったつもりが、ぜんぜん変わってない。どうしようもない。ほんとうにしかたがねぇな。
でもまぁ、今ならこう言える。たまーにほんのちょっと、こっそりおもうだけだから、ゆるしてよ。って。だって心がせまいのも、きっとこれは、わたしの地獄のひとつだから。
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