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二大企業大激突Ⅱ!! スクウェアvs任天堂 後編

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13.歪み スクウェア



スクウェアの1999年決算が出た。単体売上で342億円、利益は56億円。デジキューブ含めた連結売上だと717億円、営業利益は82億円。利益率は11%まで落ち込んだ。原因はいくつかある。映画への投資がまだ返ってこない、デジキューブの回転が悪い、この次期オンラインゲームへの投資も始めていたので、そちらの費用もかさむ等など。結果、販売管理費も売上原価も設備投資額も研究開発費も前年度より上がった。

もっとも極端なのは人員だった。1995年には276人だった従業員は、1998年には642人にまで増え、1999年には935人まで増えた。しかもこれは連結ではなくスクウェア単体でだった。デジキューブなど、他のスタジオも合算すればスクウェアは大量の人員を抱えていたが、それに似合う売上げの伸びを見せることができなかった。

経営的にはもっと売れるものを作らねばならない。今までのような好き勝手に作らせるような真似は駄目だ。スクウェアは早期退職を推奨した。……つまり、リストラに走った。

開発リソースをFFシリーズに集中すべきだ、経営陣はそう判断した。そしてこの姿勢に応じ、現場のスタッフがスクウェアから離れた。

まず、ゼノギアス開発チームが離反した。ゼノギアスの売上はスクウェアにとって満足できるものではなかったため、続編を要望している開発チームの意向を却下した。そのため杉浦博英(エアガイツのプロデューサー)、高橋哲哉(ゼノギアスのディレクター)、本根康之(ゼノギアス、クロノ・トリガーのグラフィッカー)らが退社し、ナムコからの出資をうけて1999年モノリスソフトとして独立した。

そして次に1990年からスクウェアに在籍していた藤岡千尋(スーパーマリオRPGのディレクター)が退職した。もともと藤岡はこの時点でデジキューブに席を移していたが、デジキューブとの方向性の違いにより離れることになった。その後、水野哲夫元社長とともに2000年にアルファドリームを設立した。

同じく1990年からスクウェアに在籍していた蒲田泰彦(サガ・フロンティアやクロノ・トリガーのグラフィッカー)が退職し、株式会社ポンスビックを設立した。

聖剣伝説2のグラフィッカーだった亀岡慎一が退職し、スクウェア内にいた5人の2Dグラフィッカーたちを引き連れ株式会社ブラウニー・ブラウンを設立した。この後ろ盾になっていたのは、あろうことか任天堂だった。

これを見た総務や人事もぞろぞろと辞め始めた。スクウェアは次第に機能不全手前に追い込まれていた。

この次期のスクウェアの混乱ぶりを示すだろうエピソードがある。コナミがプロ野球機構と提携し、2000年4月から3年間の実名権の独占ライセンスを取得していた。独占という名目だが、サブライセンスを渡すことは必須とされており、コナミと交渉すればサブライセンスを貰うことができた。スクウェアは「劇空間プロ野球」というソフトを開発中であったため、コナミの元へと出向いた。
コナミは、スクウェアがEAと提携していてFIFAの実名ライセンス権を取得していたので、それとパーターしませんか、と交渉したが、このとき武市社長はEAとの関係があるのでスクウェア単体では決められないと断った(そもそもFIFAと日本のプロ野球の実名権では差がありすぎるし、コナミがFIFAの実名権を取ったらEAが大損害を食らうことは明白だった。いずれにせよEAは許可しなかっただろう)。

コナミとしてはFIFAの実名ライセンスは惜しいが、しぶしぶ諦め、改めて金額面での交渉を続けようとした。が、そこから何故かスクウェアからほったらかしにされてしまった。そしてスクウェアはいきなり劇空間プロ野球の発表を行い、コナミを驚かせるが、これは2000年4月より前に発売すればコナミのライセンスには引っかからなかった。スクウェアとしてはなんとか間に合わせればよかったのだが……なんともならなかった。4月以降に発売延期してしまった。

スクウェアはコナミと再交渉し、サブライセンスを貰わなければならなかった。ところがスクウェアはコナミをそのままほったらかしにし、広告活動を続け、しかも「NPBライセンス認証済み」と謳った。コナミは激怒し、スクウェアに抗議を申し入れた。しかしスクウェアから返ってきた言葉は「ライセンスは侵害しておりません」であった。コナミの面子を全部潰したスクウェアは、この後揉めに揉め、正式に謝罪した後もなかなかサブライセンスを取得できなかった経緯がある。おそらくは法務関係で引き継ぎが上手く行っておらず、コナミからのサブライセンスは不要と思い込んで進んでしまった……ということが起きていたのではないだろうか(その後、コナミもコナミで公正取引委員会から野球機構共々怒られた)。

後にスクウェア社長となる和田洋一が2000年5月に着任するが、それから半年もせずに経理部長、営業部長、広報IR部長、法務部長、知財部長らが辞めていった。

2000年4月、武市社長が引き、会長となると、かわりに創業者鈴木尚が社長へと就任した。そして高利益体質を目指し、開発事業部の統廃合が宣言された。通称FFシフトである。鈴木尚は再建案として「サガシリーズ」「聖剣伝説シリーズ」の凍結を公式に発表したが、すでに開発スタッフは離職した後だった。

スクウェアの斜陽時代が始まった。


14.淀み デジキューブ



デジキューブは2000年6月、上場を果たした。果たしたわけだが、2000年度の売上は450億円で、これはFF7発売年の1997年度以下の売上で、しかも経常利益は150億円以上の赤字だった。

売上は基本的にFF頼みで、それに付随して攻略本やサウンドトラックを売った。攻略本はアルティマニアと、最速攻略本を二種類発売する用意周到ぶりだった(FF10ではアルティマニアをさらに二種類用意した)。これはつまり、FFが出ない年では売上が大きく下降することを意味していた。

デジキューブは多種多様な商品を扱えた。PS1だけに留まらず、セガサターン、ゲームボーイ、ワンダースワン(当時バンダイが発売した携帯ゲーム機。スクウェアが注力してFF1と2を発売していた)のソフトも並んでいたが、どうしてもコンビニの一角という都合上、主力ソフトをある程度絞り込む必要がある。そのためFF、DQが比重として大きくなってしまうが、FF、DQは毎年出るわけではなかった。

そしてPS2への移行期が始まった。2000年3月に発売し、累計出荷台数1億5千万台を記録する記念碑的ハードではあるが、この移行にあたってソフトの売上が全体として落ち込んだ。デジキューブは売上増を図って多めに各コンビニへ配分を行なったが、その温度差を食らって多数の返品を受けた。

デジキューブは打開策が必要だった。その打開策は明白だった。2000年、日本中の子供たちを熱狂させていたソフトがあった。そう、ポケットモンスターである。ニンテンドウ64はPS1に大差を付けられ、シェアをイマイチ獲得できずにいたが、ゲームボーイ市場は1996年に発売したポケットモンスター赤・緑によって復活し、98年にはゲームボーイカラーが投入してさらに加熱した。1999年には続編であるポケットモンスター金・銀が発売され、子供たちは夢中で遊んだ。FF7は大ヒットした作品ではあるが、実は1997年の日本のゲームソフト売上一位は、FF7ではなくポケットモンスターなのである(ちなみに96年の一位もポケモンで、98年の一位もポケモンだ)。なお、FF8が発売された1999年の一位もポケットモンスター金・銀だ。

ただデジキューブには任天堂への伝手がなかった。そもそも任天堂が旧初心会問屋以外にポケモンを卸してくれるとは考えづらく、この頃任天堂もゲームキオスク構想としてローソンと提携し、ニンテンドウパワーという端末を置いて書き換えサービスを行っていた。

ゆっくりと、じわじわと、デジキューブに閉塞感が襲いかかってきた。


15.出血 



2000年はスクウェア、デジキューブ共に我慢の年であったかもしれない。スクウェアの連結売上(1999年4月-2000年3月)は729億円の過去最高である一方、営業利益は44億円。99年の82億円から半減した形だった。和田洋一は社内の基盤整備に奔放し、坂口は映画制作の最終段階に入った。ここをなんとか乗り切れば、映画ファイナルファンタジーの収入が見込まれるのだ。

FF9が7月に発売され、売上と高評価を獲得した。DQ7も8月に発売され、デジキューブの売上を支えた。

スクウェアとしては8月に東証一部に上場した。それでも相変わらず創業者宮本が50%以上を持っている形ではあるが、より健全な経営を株主にアピールする必要に見舞われた。そのためFF9と同時期に開発開始していたFF10を、2001年3月期に発売することで、過去最高の黒字決算を目指す経営計画を発表した。PS2で初めて発売するFFであるFF10は、きっと消費者の購買欲求を刺激し、デジキューブの経営にも寄与してくれることだろう。サウンドトラックや攻略本だって釣られて大きく動くはずだ……。

残念だが、このスクウェアの目論みは失敗した。FF10は発売延期となり、2000年はFF9に頼った貧弱なスケジュールのままだった。赤字になることが確定的となった。これはスクウェアの創業以来初めてのことであった。株主配当は無配当となった。経営陣は責任を取らねばならなくなった。

武市会長が会長の座から退き、坂口もスクウェア副社長の座を辞任した。武市は特別顧問、坂口はエグゼクティブプロデューサーとしてスクウェアを支える形になった。鈴木社長や和田もこのとき減俸を受けた。

最終的な決算は過去最高売上金額755億円だったが、連結営業利益は29億円の赤字だった。スクウェアの最後の希望は再び、FF10と、映画ファイナルファンタジーの二つのファイナルファンタジーに託された。

かつてスクウェアの窮地を救ったこのIPならば、きっと今回の経営危機を救ってくれるはずだった。映画ファイナルファンタジーは会社の期待を背負い、最後の編集作業へと入っていった。


16.絶望 



ファイナルファンタジーという最後の希望がある限り、スクウェアはなんとかなる。その時のスクウェアは漠然とした、そういった危機感のなさに覆われていたのかも知れない。

2001年初頭、このときCFO(最高財務責任者)だった和田洋一は、社内資料で「GBA向けタイトルを供与予定」というものを見た。鈴木社長もこの時マスコミに対して「ゲームボーイアドバンス向けにぜひ供給したい。必要な努力はしている」とコメントを行った。

なんだ、任天堂と水面下で交渉を続けていたのか、これなら一安心……と思ったが、和田が確認してみるとそんな交渉はまったく進んでいないという。それどころか「向こうだってFFは欲しいはずだから、これをきっかけに条件交渉ができるかも」という返事が来た。

すぐにリアクションは来た。それを聞いた山内社長がマスコミを通じてコメントを返したのだ。

「何を言っても自由だが、契約する意思はない。将来的にも可能性は低い」

この瞬間、スクウェアは自らのおかれた立場を理解したといえる。鈴木は任天堂との距離感と気温を測り損ねていた。任天堂とは少しの間疎遠だっただけ、という認識だったが、任天堂は「お前達は出禁だ」と明言するタイミングがなかっただけだったのだ。なにせ、今までスクウェアは任天堂にいくことがなかったのだから。

和田はこれでは出禁が永久出禁になると感じ、関係修復に走る。任天堂とスクウェアの間にはシベリア並みの永久凍土が立ち塞がっていた。まずはこれを溶かさなければならないことを、和田は理解した。

任天堂との関係にはデジキューブも死活問題だった。なんとかポケモンを扱えるようにならないか、そんな声が湧き上がった。2001年7月のデジキューブ株式総会にて、株主から「土下座でもして任天堂商品を扱えるようにするべきでは?」との質問が飛んだが、それに対して染野社長は

「これは、大人の会話でございます。土下座してなんとかなるものなら、いくらでもしますよ」

と返した。スクウェアが土下座をして任天堂と関係修復する見通しはまったくもって不明瞭であるし、デジキューブが任天堂商品を取り扱いできるようになるには成層圏まで伸びたハードルを飛び越える必要があった。

デジキューブはゲームではなく、ゲーム外に活路を見いだした。

その中の一つがミックスキューブである。これはチケットの販売や預金の引き出しができる端末をコンビニ内に設置する、という規格で、デジキューブ他、いくつかの企業の出資で立ち上がった。

しかし上手くいかず、2億円の損失を食らった。

また、キヨスク事業というものをやりだした。コンビニ内に端末をおき、そこでMD(ミニディスク。ちっちゃいカードリッジの中に入っているちっちゃなCDである)への音楽ダウンロードや、ゲームのブロマイドの印刷が有料で行えるサービスである。今のコンビニ端末のご先祖のようなものだが、あまりに先進的で理解されず、売上の数倍の赤字を垂れ流す事業となり、2001年上期で19億円の特損を出した。2002年には黒字転換の予定と資料には書かれていたが、それを信じる株主は少なかったことだろう。

7月、ついにFF10が発売された。初期出荷は210万。このときPS2は500万台以上日本で出荷されていたので、ざっくり所有者の3人に一人は買っている計算に近かった。最終的に250万本FF10は出荷され、スクウェアとデジキューブの経営に一息いれさせてくれた。

そしてついに、映画ファイナルファンタジーが公開された。7月にアメリカで公開され、9月に日本で公開される流れだった。



不評だった。アメリカでは数週間で打ち切りとなった。その風評は日本にも届き、日本の客足にも影響した。なぜか吹き替えは用意されておらず、この時期千と千尋の神隠しが推されていたので、そちらに客足が流れていった。

どう考えても150億円の投資を回収できる要素はなかった。この期でスクウェアは139億円の特損を計上した。スクウェアの経営基盤に大きな亀裂が走った。

スクウェアは抜本的改革の必要性に見舞われた。早急にコストカットを行い、売上げの安定化を図り、かつ、資金をどこかから調達しなければならない。この時CCOだった和田は社長の鈴木とともに各地を回る羽目になった。


17.改革



デジキューブはスクウェアの連結決算から外されることになった。スクウェアの株は24%まで減った(それでも筆頭株主ではある)。これは任天堂へのスクウェアからのサインとなったかもしれない。「機会さえ頂ければ我々はいつでも頭を下げます」という。永久凍土を溶かすためにも気温を上げる必要があった。

当時金を払ってコンテンツを呼んでいたPOL(Play Online。スクウェアが主導していたオンラインポータルサイト。FF11を核に、他社のコンテンツを集めようと画策していた)というサイトがあったが、コレを見直し、各社に頭を下げて規模を縮小した。FF11を残し、ここへ開発資源を集中した。

そして任天堂機(この時代はゲームキューブ・GBA)への展開だ。スクウェアの売上を安定させるには、多種多様なハードにソフトを展開したほうが明らかによかった。PS以外には唯一ワンダースワンにもスクウェアは展開していたが、このワンダースワン、スクウェアのファイナルファンタジー1が最も売れたソフトとして51万本を記録した(厳密にはワンダースワンカラー。初代ワンダースワンではチョコボの不思議なダンジョンが17万本)が、ミリオンまではほど遠く、スクウェアの経営を支えてくれる柱としてはいくらなんでも頼りなさ過ぎた。

一方でスクウェアの窮地を救うべく、盟友SCEが動いてくれた。スクウェアが発行した新株をソニーが買い取ると約束してくれた。およそ149億円であり、これでスクウェアの経営危機はなんとか回避できる手はずだった。ところがこの時、和田は任天堂に出入りを続け、ギリギリのところで関係改善を模索している真っ最中だった。和田はソニーの面子を潰さず、かつ同時に任天堂との復縁を成功させねばならなかった。任天堂から提示される条件は具体性を伴うたびに次第に厳しいものになっていった。同時にソニーからの契約もいくつかの条件を提示されていたが、任天堂との契約に不利になるような要因を丁寧に取り除く必要があった。ファイナルファンタジーシリーズの取扱に関しては、双方が厳しい条件を和田にむけて出していったが、和田に慎重に、慎重に、互いの抜け道を模索していった。

最終的に新株発行の第三者割当は成立した。任天堂側は一定の理解を示してくれたが、それでもまだこの時点では社長である山内との面談には、和田は至っていなかった。

赤字である本決算発表前には、再び経営責任をとらねばならない事態になった。鈴木尚は2002年一月、社長を退きスクウェア会長となった。社長には和田がついた。和田はスクウェアを生かすため、活かすため、選択することを迫られた。映画事業をこのまま継続するのか、というものだ。ホノルルスタジオには大量のCGのスペシャリストがいた。映画制作のスタッフもいた。坂口にも最低限の映画の制作経験がついた。次回作ならばより低コストで、かつ高評価の作品をつくれるかもしれない。

しかし映画には時間がかかる。次回作を作るにしても、1-2年の間、大量のスタッフをホノルルに確保しつづけるのは無理だった。スポンサーを見つけるにしても、すぐに見つかるとも思えない。

ホノルルスタジオは閉鎖が決定した。スクウェアの映画事業は一作で終了した。スクウェアは経営陣の変更、流出したスタッフの補充、そして方針転換による改革を伴いながら、前へ進む必要があった。

そんなスクウェアに、任天堂山内社長がとある策を打っていた。それは結果として、任天堂とスクウェアの関係を修復させる流れとなる。


18.契機、そして和解



2001年11月、山内は「ファンドキュー」の立ち上げを宣言した。これはゲーム専門の投資ファンドで、原資は山内個人の持ち出しだった。一年間でゲームを完成でき、かつゲームキューブとゲームボーイアドバンス両方で連動できるソフトのみ対象として選ばれる。

この立ち上げとあわせ、和田のもとに情報が上がってきた。とあるスクウェアのクリエイターに任天堂から声がかかり、このファンド対象のゲームをつくらないか、と言われたというのだ。ようするに引き抜きだった。
少し遅れ、和田自身にも任天堂から伝手を通ってファンドキューの話が入ってきた。和田はこれを、任天堂からの和解のサインだと理解した。

ファンドキューの話に乗って和解への道を進むか、それともクリエイターの話すら把握できず、引き抜かれるか。和田の社長としての力量が問われていた。和田はすぐにこの話にGOサインを出した。

ファンドキューとの提携話は見る見る間に進んでいった。スクウェア初のミリオンソフトである魔界塔士Sa・Gaを作った河津秋敏ゲームデザイナーズ・スタジオの代表に就任した。このゲームデザイナーズ・スタジオ、元々はスクウェア完全子会社のスクウェアネクストを改組したもので、株の51%が河津へ売却された。

ゲームデザイナーズ・スタジオ、というより河津は見事ファンドキューの審査を突破した。「ゲームキューブとゲームボーイアドバンス両方で連動できるソフト」という題に見事合致して、「ゲームボーイアドバンスをゲームキューブに繋いで遊ぶ」というアイデアを披露したのだ。ゲームデザイナーズ・スタジオは自身では開発機能をもたず、スクウェアに開発を外部委託する形になるが、ようするに任天堂はファンドキューという別組織を作り、スクウェアはゲームデザイナーズ・スタジオという別組織を作り、その二つが手を繋ぐことで手打ちとしたのだ。もしかしたら事実は逆で、「ゲームボーイアドバンスをゲームキューブに繋いで遊ぶ」というアイデアを聞いた山内が、わざわざファンドキューの融資条件を「ゲームキューブとゲームボーイアドバンス両方で連動できるソフト」にしたのかもしれない。結局ファンドキューはゲームデザイナー・スタジオ以外に融資したことはなく、その役目はスクウェアとの和解を果たしたことで終えた。

実はこのファンドキューの立ち上げに先立つ9月、スクウェア創業者宮本と鈴木は、共に任天堂に赴いていた。ひょっとしたらこの時、揃って山内へと頭を下げていたのかも知れない。そして、山内はずっとそれを待っていたのかも知れない。ただこの時は、具体的な提携や和解といった話までは至らなかった。

ファンドキューの立ち上げ後、和田はついに、任天堂最上階、山内社長の応接室に招かれた。そこで仕事の話を済ませたあと、別室で会食を行った。山内の口からはことあることにスクウェア創業者、宮本の話題が飛び出てきた。

「エロひげ(当時創業者は髭を生やしていた)は元気か」
「あいつはアパレルなんてやっているがうまくいくわけがない」
「エロひげがどんだけダメかと言えば、もぉ全然ダメやね!」

https://note.com/waday/n/n27fb1b6a2838


長い長い氷河期は、ようやく終わりを告げた。



ファイナルファンタジークリスタルクロニクルは、1年少々というごく短い開発期間で完成に至り、そしてゲームキューブとゲームボーイアドバンスにて発売された。その発表時には、任天堂とスクウェアとの和解がなったことが、大々的に宣伝された。

なお、第三者融資を行ったソニーからは「ソニーのセカンドパーティであっても、ゲームボーイにタイトル供給していく程のアグレッシブさがあった方が良い。スクウェアさんもソニーが支配しようなどとは思っていない。隆々としてPSにタイトルを出してくれればそれでいい」という言葉が和田の元に届いた。任天堂、スクウェア、ソニー、緊張感ある三社の関係は、各社の配慮によりバランスを保つことに成功した。

そして、間をおかず、スクウェアは次のステップに進むことを余儀なくされた。


19.合併


2002年5月、ベータテストを経てスクウェアはファイナルファンタジー11の正式サービスを開始した。これは従来のFFシリーズとは違い、オンラインRPGのFFである。あまりの人気ぶりにサービス当初はログインするだけでも大変で、終いにはログインサーバが落ちた……という不手際もあったが、その後PS2では10年以上もサービスを続け、拡張パックがPS2最後の発売ソフトとなって有終の美を飾るほどの人気作となった。なお、PC版は現在でも稼働中である。

オンラインRPGの月額料金はスクウェアの経営を立ち直らせるのに十分だった。9月には有料会員が12万人を突破した。彼らは毎月毎月、スクウェアに使用料を支払ってくれた。

そして、和田のところへ、エニックス社長の本多圭司が相談にやってきた。合併の申し出である。ソフト開発費の高騰に、オンラインゲームの展開、当時普及し始めた携帯電話ゲームへの進出、海外への広がり……。課題は山積みであったが、エニックス、スクウェアともに共通するところが多かった。ここで合併し、マンパワーを集中化することで、この時代の新たな地平を切り開くことができるのではないか、そういった意味合いが込められた申し出だった。

話はスムーズに進み、2002年11月には合併が公表された。存続会社はエニックスだが、合併後の社長は和田が務めることになった。スクウェアは任天堂との関係を改善させたのち、改めて合併後の新体制へと移ることとなった。


20.ファイナルファンタジー



スクウェアの歴史は終わり、スクウェア・エニックスの歴史が始まった。ファイナルファンタジーは現在でもシリーズが継続しており、昨年は最新作の16が発売されている。今年は7のリメイク三部作の二作目(ややこしい)であるファイナルファンタジーVII リバースが発売された。


生みの親、坂口博信はスクウェアを退社後、ミストウォーカーを創設。その後も「ブルードラゴン」「ラストストーリー」「テラバトル」「FANTASIAN」と、プラットフォームを変えつつ様々な新作ソフトをリリースしている。

橋本和幸はスクウェアを退社後、2006年にハワイにバーチャルリアリティ特化開発会社、Avatar Realityを立ち上げた。Blue Marsという、今で言うところのメタバース的な、セカンドライフの延長線上にあるような仮想空間ソフトを作り上げたが、リーマンショックが直撃してしまい、結局会社を畳む羽目になった。ちなみにこのAvatar Realityのアドバイザリーボード(顧問委員会。経営の助言を行うもの)には、山内社長の娘婿荒川實や、テトリスの生みの親アレクセイ・パジトノフが参加している。
その後、NVIDIA Japanのシニアディレクター・エンタテインメント テクノロジー担当として就任したほか、2019年にはdots in spaceを設立し、シリコンスタジオ株式会社の社外取締役を行っている。

鈴木尚は2004年にスクウェアを去った後、楽天の取締役常務執行役員に就任したり、EXILEの事務所である株式会社LDH JAPANの会長についたりと大忙しだった。その後、シンガポールに移り住み、ベンチャー企業に投資するファンド、グローバル・ブレインの現地法人代表を務める。2005年からは個人的な投資先であった広告会社、株式会社PTPの社外取締役に就任と、見事な投資・経営手腕を披露した。

宮本雅史はスクウェアの社長の座を譲った後の1995年、アパレル会社である株式会社エスシステムに移り、FinalStageという女性向けブランドを立ち上げた。このとき、FinalStageはアパレル業界に今までなかったモニター制を導入した。実際に顧客層である女性に試着をしてもらって、その意見を製品に反映し、商品のクオリティを高めていこう、という手法である。これはアパレル業界で話題となり、他社も追従した。しかし市場自体がバブル崩壊後、低迷しつづけたこともあってFinalStageはさほど大きな話題となることができなかった。モニター制が広まった結果、逆に無個性化が進んでしまったことも要因かもしれない。
結果、FinalStageは2006年にLuxjewelとリニューアルし、再スタートを切った。その流れの途中で宮本はアパレルから身を引いた。

宮本雅史は2010年、高齢者向け分譲マンションである「スマートコミュニティ稲毛」を立ち上げた。これはアメリカにあるコンティニュイング・ケア・リタイアメント・コミュ二ティと呼ばれる高齢者向けコンパクトシティ(身体が動く高齢者はレジャー施設で遊び、介護が必要になった場合は必要な施設と人員が近くにいるので、支援を速やかに受けられる)をモデルにしたもので、退職後の高齢者がレジャーを楽しみながら健康寿命を延ばすことを目的としている。マンションの近くにはクラブハウスと大きなグラウンドが併設されている。

彼はこのようなことを語っている。「最後は社会に役立つ事業に」

元々2004年に山内成介が設立した株式会社レジャーワールドジャパンという会社があった。この山内成介、山内溥の甥であり、成介自身も任天堂に入社し、NOAへ出向したり、1999年には台湾任天堂の社長となったこともあった。2007年に社名を株式会社スマートコミュニティへと変え、そして宮本を会長として据えることで事業を進めていった。かつての関係性から見ると非常に興味深い出来事である。

山内成介は立ちあげ後、社長の座から下りた。これはおそらく政治活動への転身のためと思われる。2012年12月衆議院選挙にて京都三区から出馬した。残念ながら当選はならなかった。

その後、一時宮本が会長兼社長となって事業を引き継いだが、元デジキューブ社長である染野正道と合流する。染野がスマートコミュニティ社長となり、共に今でもこの事業を営んでいる。


スクウェアを立ち上げた者、FFを作った者、FF7で世界に飛翔させたもの。多くの人がいた。そして多くの人が、スクウェアを去った。残ったものはFFを今世代まで繋いだ。去ったものは、別の事業に向かっていった。それはFFを作り上げるときの熱量と違わない情熱が伴っていることだろう。

ファイナルファンタジーが名前に反して今でも続いているように、彼らの挑戦も熱気を伴いつつ、今でも続いている。

──終わり

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