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『ロストケア』から自宅介護の現状を知り見たくないものを見る重要性
『ロストケア』という幻想
介護のゴール設定はどこか
今さらだが、アマプラで映画『ロストケア』を観た。
これは、葉真中顕(はまなかあき)の小説が原作となっている、まさに『ロストケア』を題材とした作品である。
物語自体のテーマは自宅介護であり、家族を診るということや、お互いに疲弊していく家族との絆とは何かを、問いかけてくる作品である。
おそらく多くの人にとって、他人事ではないため、体力と気力を使って見なくてはいけない作品であることは間違いない。
『ロストケア』というのは、物語の主人公である斯波宗典(しば むねのり)が「喪失の介護」と称した、「救いの介護」のカタチである。
家族を施設に入れることが、何かしらの理由で困難になった場合、自宅で家族の手で面倒を見ることになる。
だんだん年老いて弱っていく家族(親)を診るというのは、言うほど簡単ではなく、想像を絶する苦悩と苦労が待っている。
認知症や寝たきりになって、自宅で一人にしておけない状態になってくると、どうしてもそばにいなくてはならない。短い時間ですら、仕事に出れなくなってくると、面倒を見ている親の年金が頼りだが、それも月に数万円程度。家賃と光熱費でそのほとんどが消え、手元に残るのはわずか。
三食食べられなくなって、生きることもままならないのに、それでも進行していく認知症や病状。
床に散らばった、親の排せつ物を拭いている側から、親は次の排せつ物をまき散らしていく。
「悼む」という言葉は、こういう時に使うのだと、しっくり来た。
ゴール設定のない苦行は、拷問である。
「いついつまで頑張ったら終わりです」といわれるわけもない介護という現実は、自分自身を失っていくのには充分だ。
私はこれを、現代社会のあちこちに散らばっている問題の一部として捉えていた。介護という現実を、若い人は現実的に考えられないかもしれない。
しかし、若い人には、若い人だから感じている苦しみがある。
それは、「いつまで低賃金の現代社会を生きなくてはいけないのか」という問題である。
年齢が若ければ若いほど、果てしない未来が待っている。だからこそ、若い人ほど果てしなく先にあるゴールまでが遠く感じてしまう。
楽しい現実が毎日続いていれば、未来を考えるのも楽しい。
ところが現代社会は、リア充で暮らすことなど不可能になっている。
それでもどこかにユートピアを持ちたいと、人々はもがき苦しんだ挙句、ネットの中にバーチャルリアリティを見つけることができた。
現実から目を背けたいと感じているから、バーチャルの世界に目を向けているのに、そんな生活も40歳を過ぎたあたりから暗雲が立ち込める。
親が年をとって、介護が必要になるのだ。
そうなってくると、現実社会から目を背けるわけにもいかない。社会のルールもあいまいな部分が多く、ネットゲームのように明確な説明の元に立ち上がっている仕組みはどこにも見当たらない。
役所に行っても、「親御さんは無理でも、あなたは働けますよね? 大変でしょうが、頑張ってください」といって、役場の窓口から追い払われる斯波の姿が映画でも描かれていた。
実際に介護の現場に立ってみると、自己責任という形で片づけられる親の介護は、国が補償してくれているというのも、ごく一部であることが分かる。
私も、介護の現場で働いていた。現在は療育施設で発達障害の児童の面倒を見ている。
障害児の親も、目を背けたくなるような現実を日々、懸命に立ち向かって戦っている人が多い。そこには、社会の仕組みの甘さや役場の不親切な対応によって苦しめられている人が多くいる。そして戦後から大して改革のなされていない教育機関が、旧態依然とした考え方をしていることによる、新しい枠組みと古い仕組みの狭間にハマって抜け出せない人が多くいるのだ。
そんな中で、面倒を見る側の人間をもっと苦しめてくるのは、面倒を見ている相手への【愛情】である。
子どもであれ、親であれ、情がわいた相手に対して簡単に見捨てることはできない。見捨てても、その瞬間はすっきりすることができても、長期的に見たときには必ず後悔する。今まで面倒見て育ててくれた親への感謝や、障害を持った子供に生んでしまった自分への懺悔の気持ちが、自らを限界まで追い詰める。
このような道に、ゴールなど無い。
低賃金の社会から目を背けるために、ネットにのめり込む若者も、低賃金が続いていく以上、そのゴールはない。
だから現代社会では、通勤電車内でも、ネットゲームアプリを開いてやっている人がとても多いのだ。現実から少しでも逃げたいと考えている。教養がないのではなく、現実ではどうしようもなくなったことへの抗いの行動である。
そんな生活をして気がついたら親の介護が待っている。
施設に入れて簡単に片づけてもいいが、それでは可哀そうだと思う優しい子供たちは、親の介護によって自分を失う。
破滅した結果が、親を殺してしまう事件を生んでしまうのだ。
映画『ロストケア』Amazonプライム
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0CHBRPGND/ref=atv_dp_share_cu_r
見たいものと見たくないもの
事件を担当した検事大友秀美の言葉にこんなものがある。
「見えるものと見えないものがあるのではなく、見たいものと見たくないものがあるだけなのかもしれない」
これこそが真実であるように感じてしまう。
「殺したのではなく救ったんです」
そう言い切る斯波の言葉には、どこか説得力がある。
いや、「どこか」と言っている時点で、私は目を背けている。
説得力があるのだ。なぜか。
それは、「もう苦しまなくていいから」である。
斯波は殺すターゲットの老人の選定を、介護する側も、介護する側も、苦しんでいると思われるお宅をピンポイントで狙っていた。
どちらも辛い、苦しいと感じているお宅に、絞っていたのだ。
「喪失の介護、ロストケアです。僕は42人を救いました」
『ロストケア』という介護。
それによって救われるのなら、殺人が罪だとは言い切れないのではないか。
「人を殺めてはいけない」と学校でも習うが、「なぜいけないのか」という説明には、誰もが納得する答えはない。
その理由は、生死がかかわることに、正当な理由など無いという証明なのではないか。
人の生き死には、神が決めることであって、人が手を下したり手を加えたりすることではない。そこには、「人を殺めてはいけない」などという平べったいルールなどではなく、人が人として生きるための道徳規範のようなものが存在しているだけのような気がする。
見たくないものを見なくてはいけない辛さは、死と向き合うことに限りなく近いものだ。人が一番見たくないのは、自らの死であるからだ。
死を見ることは、自分の終焉を見ることになる。
そこには、終わらせたいのに終わらせたくない現実がある。
親には長生きしてほしいのに、そう望まない自分がいる。
親には世話になったのに、素直にそう言えない自分がいる。
どれだけ見たくなくても、見なくてはいけないものがある。
目を背けることで、救われることもあれば、目を背けること自体ができないこともある。自分が目を背けることを嫌がる自分も、そこには存在する。
見たいものだけを見ていても、生きることはできない。
時には、見たくないものに目を向けなくてはいけない。
映画の中で、入社3か月の足立由紀という女性が登場する。彼女は斯波を介護士として憧れの人だと告白するが、彼の逮捕によって風俗嬢に転身してしまう描写がある。
これはまさに、見たいものしか見ていない人は、どのように自分を壊してしまうのかを上手く表現していた。介護士として出発したばかりの彼女が、自分の見るべきものを見失った末路を描いていると思った。
彼女は見なくてはいけないものを見ていなかったのだ。
見たいものと、見たくないものを混同してしまって、見たくないものを受け入れることができなかった。
介護士として、斯波は尊敬に値する人物である。
それは、大友検事も発言している。斯波の介護ノートは、事細かく書かれていることに感心して、介護士の鏡だと絶賛している。
しかし一方で、斯波の異常性にも目を向け、それを自分自身に投影して、自分と父との確執を自分の中で解決している。
この大友検事の見方こそが、見たいものと見たくないものを同時に見ていることになり、それによってしか、現実を見ることはできないのだという証明にもなっていた。
この作品は、見たいものと見たくないものいう、現代社会にも当てはまる現実を上手く描いていた。
2013年の作品でありながら、12年後の現代にも当てはまることが多く、今を生きることが辛いと感じている人は、ぜひとも見て考えてみるきっかけにしていただけるといいと思う。
見たいものだけを見ていては、現実から遠ざかっていくだけなのだ。
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