感想 『しん次元!クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 ~とべとべ手巻き寿司~』
観ました。できるだけネタバレにならない範囲で、賛否を含めた感想を書くにあたって、いくつか前提があります。先に書きます。
① 『しんちゃん』をそれなりに観たり読んだりしてる人が、このnoteを書いてます。この物語の原作版、TVSP版も大好き。
② ネット上での批評は、観る前からあるていど不意に目にしており、私も同じように感じる部分はありました。
③ 「頑張れ」という言葉は、時に人を追い込んだり、かえって孤独にさせてしまったりする事がある。これは私も元々そう思っています。また、上記以外の個人的な引っかかりもある。
④ それを踏まえても、総合的・個人的に私はこの映画は良いと感じました。
以上です。
本題のまえに、あらすじを軽く書きます。
とある夜。宇宙から「暗黒の光」「小さな白い光」と呼ばれる二つの光が、地球を目指して急接近していた。そして暗黒の光は古くから言い伝えられている、世界を滅ぼしかねないほどの恐ろしい力を持つものだった。
舞台はカスカベ。そこでティッシュ配りのアルバイトをしている、とある男性がいた。彼の名は非理谷 充(ひりや みつる)。町の不良から理不尽な迫害と暴行を受けながらも、推しのアイドルを支えにして辛さを押し殺す彼のもとに、推しの結婚のニュースが届く。ショックを受ける彼に、さらなる理不尽が降りかかる。暴行犯と間違われ、警察に追われてしまうのだ。
度重なる理不尽と生き苦しさに見舞われ、警察から逃げ惑う非理谷。そんな彼を目指すかのように、暗黒の光はとうとうカスカベに飛来した。光に直撃してしまった彼は予言の示す通り、恐ろしい力を秘めた暗黒のエスパーとなってしまう。そして彼はその力をもって、自分をコケにする世の中への復讐を誓うのだった。
そして一方、ふたば幼稚園での運動会を控えたしんのすけにも、小さな白い光が飛んできて……。
こんな感じです。
非理谷の人物像は、参考までにもう少し補足すると、幸せを噛み締める赤の他人への不満や愚痴をもらしたり、不良からの暴行によって倒れてしまった自分を見かねて、手を差し伸べたひろしの手を払いのけたりしています。詳細は伏せますが、自力では解決できない強い苦しみと、自身が抱えている「世の中に対する認識」への葛藤を抱えるキャラでもあります。
ここから本題です。
長い前置きになって申し訳ありません。
個人的に引っかかった点は3つ。
まず一つめは、「クレしんでこんな描写と言い回しする?」という点。具体的にはキャッチコピーとキャラの一部の不自然なセリフがそうなんですが、一番は非理谷を中心として語られる「この国に未来などない」というところ。けっこう終始このセリフが出ます。
これを観た子供たちが何を思うのかだいぶ気がかりなのと、この題の出る所でギャグを被せず、しっかり希望とその未来に向けてほしいというのは観ている時ずっと思ってました。小さい子が、観たくて観に来るものなんですよ。ここだけ、ほんとここだけはちょっと怒りに近いです。
非理谷が受ける迫害や、彼が抱える悩みはしっかりと生々しく、そこは描写として必要だし大切です。でも、これはまた問題が別というか、今のこの世は人が生きたいと思える世でもあるのを、しっかりと描いてほしかった。
二つめは、非理谷のオタク像がちょっと古く感じること。
三つめは、みさえはしんちゃんの目の前で町のごみを散らかしたりしない。
引っかかった点は以上です。
次から、良かった点を3つ書いていきます。
① 問題提起と、それへの(せめてもの)回答はあった
頑張れという言葉の人を追い込む可能性というのは私も本心から思う所で、観てる時も少し引っかかりました。光に当たる前の非理谷は頑張ってます。
すでに頑張っているのにという思いになったり、安全圏から言っているだけじゃないかと感じたり、だからってどうすればいいんだと悩んだり。時に残酷な言葉というのは強く感じます。
しかしネタバレのない範囲で書くと、この辺りはセリフと描写をもって補足がされています。完全に突き放しているようには私は感じませんでした。手巻き寿司が食べ物である事から、「食べる喜び」にフォーカスを当てるシーンも度々あります。
そして、これを根強くするもっと大切なところなんですが、非理谷は幼いころから、とある楽しみを持っており、それがしんのすけと強くリンクする瞬間があります。この「幼いころの非理谷と、現代に生きるしんのすけの繋がり」こそ、非理谷にとっての救いになったのだと思います。
② バトルパート(少々のネタバレを含みます)
これはすごい迫力ではないでしょうか。巨大カンタムロボが放つ追尾式手巻き寿司ミサイルはめっちゃテンション上がりましたよ。その後もカメラワークと立体感を活かしたバトルが繰り広げられていきます。ロボットアニメに明るくない私でもすぐに分かるパロディも自然に盛り込まれており、良いと思います。
詳細は伏せますが、ラスボスの姿もTVSP版とはまた一味違うものになっており、ここは観に来て良かったと思うほどでした。
③ しんちゃんというキャラクターがしっかりと、非理谷の支えになっている
これは細かく説明するとネタバレにならざるを得ず、どうしても抽象的な書き方になるのですが、前述したしんちゃんと非理谷の繋がりは強固なものだと思います。これはしんちゃんが子供であることに加え、クレヨンしんちゃんだからこそ成り立つものだと感じました。頑張れの言葉をパッと受けるのは私も苦手ではありますが、でもしんちゃんにそう言われたら、私は嬉しいですよ。頑張れだけでなく寄り添いも、説得力を伴って描かれていると思います。
次からは感想とまとめになります。ここまで読んでくれてありがとうございます。
なんだか野原一家は、いつの間にか「理想の家族像」みたいになってきていると思います。でも違うよと私はずっと思っていて、野原一家は互いを責めあったりもするし、それぞれ間違いやだらしなさ、何なら悪い所だってあります。
そしてそれを、時にごまかし、時に隠し、時に省みて、そして許しあいながら、いつの間にかいつもの調子に戻って、4人と1匹の幸せを何より大切に生きている。完璧ではなくても。だから私はクレヨンしんちゃんが大好きなんです。
「この国に未来などない」なんてクレヨンしんちゃんで言ってほしくないし、頑張れと言われたって、全ての人が頑張っても報われるわけではない。この言葉ひとつでは、なかなか救いにはならない。そう思います。
けれど野原一家は根本的に、非理谷という人を突き放す人たちでは決してないのです。それはこの映画の中でもそうでした。
追記
形は違えど誰しもが抱えるであろう、苦しみや孤独といった、社会からの断絶。非理谷の動機でもあったそれは、野原一家も、それぞれが個別に抱えている問題なのです。
ひろしが非理谷に伝えたことは、ある種しっくりくるものではなかったのかも知れません。しかし、誰しもが抱える苦しみや孤独は、形が違っても、強く重なる瞬間が必ずあるもの。
あの時のひろしは、自分自身のコンプレックスや苦しみを思い出し、非理谷と同じ視線から伝えたのではないでしょうか。
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