サイドノック式シャープペンの思い出
サイドノック式シャープペンが好きで入社したら廃番になった話【#忘れられない一本 03】というタイトルのとんでもない文を読んだ。
あえて記事でもnoteでも投稿でもなく文と呼ばせてもらいたい。無論敬意を込めて。
何かがこもっている文というものは人を動かす。ただし人生を変えるとか、そういった大層なことは無い。手元の何かを少しどうにかするくらいの、蝶の羽ばたきにも似た小さな後押しでしかない。
しかしこうして動かされた者がここに一人確実にいることは、上に挙げた文に確かに何かがこもっていたことの証左に他ならない。
ただ悲しいかなサイドノック式シャープペンに対する思いはその筆者の方が明らかに強いであろうし、文章力に至っては歯牙も掛からない。
たしかに私もサイドノック式シャープペンを愛用していた身だ。しかし商品名を把握できていない。もうぺんてる製かどうかすら怪しい。本当にタグつけて大丈夫なのかこれ駄目だろ。怒られそうな気すらする。お前何が忘れられないだ忘れてるじゃねえか、と。
そして悲しいことにそのペンはもう手元に無い。文字通り使い潰してしまったからというのもあるが、自衛隊、警備員という職を経験していった中で業務内使用においてその機能が不適当になってしまった事が大きかった。
自衛隊も警備員も、その限度の差はあるもののハードな職場である事には変わりない。無造作に扱ってしまう事はどんなに気を付けようが日常茶飯事、風邪に吹かれたかと思えば雨にも打たれる。
結果としてメモ帳は耐水紙、ペンは堅牢なタイプのボールペンとなったことは自然な流れだと言って良い。
執筆活動はかの文の筆者も言った通り紙ではなくパソコンのメモ帳やらワードやらを使うようになってしまった。
そんな折、父から万年筆を贈られていよいよシャープペンシルの出る幕はなくなってしまったというわけだ。
今は2020年の7月28日の午前3時15分。
古いノートを引っ張り出して中身を見て苦笑している。
頭を抱えたくなるようなレベルの語彙力と熱量しかない想像力で書き殴られた悪文がそこに書き連ねられている。
書き終えたものもあれば、まだ途中のものもある。
趣味の悪いパッチワークのようなものになる事を覚悟で少し書き進めようとしたが、筆が進まない。手の収まりが悪い。
手元にある文具はどうも、無骨で無駄に堅牢なものばかりだ。
長らく『筆を執る』ことを忘れておきながら、私の手は亡き筆を求めているようだった。
……そんなわけで惨めにもすごすごと、筆も執らずにここにこんなにも中身のない言い訳がましい拙文をしたためたわけである。