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海を渡る言葉——消えゆく記憶と新たな波第一章:冬の海風に呼ばれて
海を渡る言葉——消えゆく記憶と新たな波
「歴史に埋もれる言葉は、本当に消えてしまうのか? 文化の波を越え、言葉の行方を追い求めた男の物語。」
第一章:冬の海風に呼ばれて
田中和彦は、大連の港に立っていた。冬の海風が頬を切るように吹きつけ、薄曇りの空が広がっている。かつてロシア人が築いた赤レンガの建物、日本統治時代の近代建築、そして現代中国の高層ビルが入り混じるこの街は、歴史の層がそのまま街並みに刻まれているかのようだった。
整然とした欧風の街路の先には、かつて南満州鉄道の拠点として栄えた影が残る駅舎があり、通りには異国情緒のある料理店や、古びた書店が軒を連ねている。
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この街を訪れるのは初めてではなかった。だが、これまでの訪問は表面的なものに過ぎなかった。観光客として、あるいは短期の出張者として見た大連と、今ここに立つ自分の視点はまるで違う。
今回は、本来の自分を表現するためにやってきたのだ。田中はかつて新聞記者として25年ほど働き、退職後はフリージャーナリストとして活動していた。日本の戦後復興、そしてそれに伴う東アジアの国々との関係変化を追い続けてきた。歴史を掘り起こし、語り継ぐことにこだわるのは、彼の信念だった。だからこそ、彼はこの街に戻ってきた。
そんな彼を港で待っていたのは、王建国だった。田中より少し若く、大連外国語大学日本語科を卒業した日本語エリートだ。彼の仕事は、中国の出版社で文化交流関連を担当する編集者。日本の書籍を中国に紹介し、また中国の文化を日本へ伝える架け橋のような役割を担っている。
二人の出会いは数年前、日本での文化交流イベントがきっかけだった。王は流暢な日本語を操り、田中の取材を手助けしたこともあった。
「田中さん、お待たせしました。」
王の声は穏やかで、どこか人を安心させる響きを持っていた。田中は軽く頷きながら、海に目をやる。岸壁には貨物船が停泊し、作業員たちの怒号とクレーンの軋む音が混ざり合っている。波の匂いが鼻をかすめた。
「久しぶりですね、王さん。」
田中は鞄のストラップを握り直し、ゆっくりと王の隣に並んだ。この街で、彼が何を成し遂げるか——それはまだ、誰にも分からなかった。
(第二章へ続く)