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ファンレターの作法:心臓を入れてはいけない。
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わたしは、げに恐ろしき文量のファンレターを綴るときに指先を清潔にして、それから最果タヒ先生の「ファンになる。きみへの愛にリボンをつける。」を読んでから挑むんですけど、お誕生日のお手紙ってとんでもないな。だってクリスマスやお正月じゃない、その人だけの祭日にお邪魔するってことだもん。
それっていいのかな? っていう思いもある。わたしはわたしが綴る言葉に、嘘なく綴る言葉に、いつだってとても自信がない。虚飾や空想で煌めかせたプラスチック製の言葉なら、むしろ得意だ。でもあなたに贈る言葉はそうじゃない。それじゃ嫌だ。あなたにはわたしの心臓をあげたいんだ。
でも「あなたにはわたしの心臓をあげたいんだ」って、わたしのわがままだから、そのまま渡されてもさぞかし困るだろうという気持ちもある。だってひとりのファンからいきなりクール便で心臓が送られてきたら、刑事事件でしょ。あなただけの祭日に、祝日に、そんなことがあってはならないでしょ。
だからわたしは言葉をうんうん唸りながら、どうにかこうにか法律をかいくぐり、わたしの「心臓をあげたいくらいの気持ち」の温度だけでも差し上げたいなと思う。そう思えるようになったのも、「呼んでくれる言葉のおかげで舞台に立てている」というあなたの強さがあるからこそなんですけれども。結局。
わたしはわたしなりに、心からの礼を尽くして、何度も読み返して何度もわたしからの認可が出た言葉しかあなたに届けたくない。でも実際問題いつだってわたしは不安で、「これっていいのかなぁ」と不安とときめきの狭間にいる。わたしはあなたを祝えるわたしだろうか。
たった数行のことが伝わればいいのに、あなたに向かって襟を正せば正すほどわたしはとんでもない文字数になってしまう。し、内容もなんだか不安になってくる。本当にこれってお祝いになっているのだろうか? あなたへの「おめでとう」に、「大好き」に、なっているのだろうか? 言葉を重ねても重ねても。
でもそうやって消しては書いて消しては書いて消して消して書いて書いて書いてを続けていくうちに、花束の包み紙のように、幾重にも不織布がかさなることで、(あなたから貰った光に比べたらほんの僅かだけれども)鮮やかな光が届けられたらな、と思って、わたしはつめたい水で指先を洗っている。
わ~ッ! って消したい文章ばかりだ。もうすこし巧く書けるんじゃないか。そう思って書き直して、嘘くさいな。になったりもする。たぶん「嘘くさいな」になったら駄目で、(わたしの技術不足もあるけれど)「もうすこし巧く書けるんじゃないか」はたぶん守りに入っていて、あなたの目を見れていなくて。
あなたの目を見ることができているな、と自分で自分の確信を持てた文章なら、きっとわたしの心臓の代打を任せられる。わたしはものを書きながら、言語化をすることで思考をまとめることができる、逆に言えばそうしなければ思考がふらふらしてしまう難儀な性質で、わたしの心臓の代打にわたしの文章が選ばれました! っていうのもたった今、この書きたてホヤホヤの文章を綴っているちょうどこの瞬間に生まれたものなのだけれども、わたしはわたしを信じられる瞬間が異様に少ないから、わたしは虚飾のない自分になんにも、ほんとうになんにも自信が持てないから、だからこそ「あぁ、そうかも」「うーん、これかも」っていう自分の感覚を大切にしたくて。大切だから心臓の代わりにもできる。うん。たぶん。きっと。そうだといいな、といつまでも祈っています。
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次回→「愛していると心から言えない」