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最後の別れ


「まだ、主人が帰って来ていないので、帰って来てからでは、ダ メでしょうか」

「自転車で来ているので、すぐですから取り敢えず連れて帰ります」奥さんはしばらく、困った顔をしていましたが、やむなく納得をしてくれました。
           
 汚い自転車の荷台に知美を乗せて、自宅まで帰りました。
近いと言いましたが、綾瀬川と新中川を二つ越えなければならないので、小一時間はかかりました。
途中、知美が咲いている花を摘んでパパとママにあげたいといつので、河川敷に自転車置いて一緒に花を摘みました。
知美は本当の父と母をパパ、ママと言い、新しいお父さんお母さんを「おとうちゃん、おかあちゃん」と呼んでいました。
流れる川を見ながら、この子は「おとうちゃん」のうちにいた方が幸せだろうなと考えるようになり、そして、この先10年、20年と時が過ぎても川を見るたびに妹のことを思い出すと思い悲しい気持ちになりました。

 家に着くともう、牧田さんのベンツが停まっていました。
知美が家に入るよりも早く、牧田の親父が飛び出てきて知美を抱き上げました。
後ろで見ていた奥さんが、「ともちゃん、パパのおうちとおとうちゃんのおうち、どっちがいい」知美は少し考えて「パパのおうち」と答えたのです。
「やっぱり、こんなに大きくなったら、(知美は多分四歳 か五歳だった)もう、無理でしょう」
 奥さんが悲しい顔をして言いました。
「そんなことないよ」牧田の親父の怒った顔を初めて見ました。
この人も全力で知美を愛している、そのことが有り難くて寂しかったです。

あるときに日本テレビのニュース番組で、ジャーナリストの「ばばこういち」さんが「アフタヌーンショー(なっとく、いかないコーナー)」の取材に訪れてくださいました。
その取材で父親は「娘は痩せていたけれど、まさか死ぬとは思っていなかった、死因は喉に詰まらせたお粥が原因で、新聞等などで報道されている餓死などではない」とテレビで反論をしました、報道のばばさんは、なぜその事に早く気がつかなかったのかと優しく諭すように話してくれました。
その事に気づかないほど生活に困っていたとは言いがたく、最後は無言でインタビューは終わりました。
 後に自分が空手の世界大会で優勝したとき、当時のことをメールで、ばばさんに、伝えたところ、「あの時の少年が」と、とても喜んでくれました。
いつか、会ってお話しましょうと約束をしてくましたが、残念なが ら2010年に、亡くなられました。
               
そのような事件に巻き込まれたせいで、自分は中学に入学ができませんでした。心配をして、担任の教師が何度か訪ねてきてくれましたが、該当する中学では、自分を快く受け入れてくれませんでした。

しかたがなく、自分は近所の新聞販売店に歳を偽って新聞配達のバ イトを始めました。
ある時、近所に住む面倒見の良さそうな民生委員のおじさん が「これからの時代、中学も出ていないと将来困るよ」と言ってくださり、葛飾区の四つ木にある夜間中学を進めてくれた。毎日、新聞配達と夜間中学で勉強するという日々を送りながら、小学校の時から 続けてきた空手だけが、生きがいでありました。

こんな、駄文を読んでくださり貴方は仏様ですか?