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食道整脈塞栓術

ベッドの空き状況に合わせて、一週間後に入院をすることになりました。
自分はもちろん癌保険にも入っていないし、何の保証も出ないので、少しでも働こうと思い、二回だけ移送の仕事を受けました。
(移送とは精神に障害がある人を、迎えに行って病院まで連れて行く、警備会社の一分野、なかには暴れる患者もいるのである程度実力行使が必要な特殊な仕事)
対象者も腕を掴み病院に移送する警備員が、まさか癌患者などとは、夢にも思 わないでしょう。
それと、もし今後、調子が悪くなったら、二度とバイクには、乗れないだろうなと思い、娘の栄麻とタンデムで渋谷に出掛けました。
 この子が高校生ぐらいになって、渋谷で遊んだりすることを、見ることも聞くことも、できないと思うと、109が霞んで見えました。
おしゃれなカフェに行き、一番高いケーキを注文して、コロナのために遮断されたガラス窓越しに娘の姿を見るといったいどんな子に育つのだろうと
想像してみました。
 渋谷の帰りに小さいときよく遊んだ港区の有栖川公園に寄り、お袋の実家である麻布に、今でも、亡くなった母親のお兄さんの嫁、つまり自分の叔母さんが住んでいるので、会いに行きました。
 もう、九十歳になろうかとしているのに、背筋は 伸び若々しい叔母さんでした。
有栖川公園の池を見ながら、こんな九十になっても元気な人は元気なのに、六十の還暦で余命を宣告されてしまう男は、余程業が深 いのだなと思ってしまいます。

 帰りに叔母さんに挨拶をすると、「元気でね、身体気をつけるんだよ」と声をかけてくださりバイクが見えなくなるまで見送ってくれました。
 もう二度と会えないのではないかと思っていたのかも知れません。

 一週間後、取り敢えず整脈塞栓術で食道の整脈瑠を塞いでしまおうという手術を受けました、内視鏡を使った手術だし、たいしたことはないと軽く考えていたら、この手術がとんでもなく痛かったのです。
 喩えるならば、喉に飯が詰まって、水を飲んでも治らない痛さといったら良いのでしょうか、喉の詰まりが一晩中続き首を絞められているような痛みでした。
 途中何度か吐きたくなるが、吐くこともできない、まさに真綿で喉を絞められる痛みが朝まで続きました。
 日頃、痛みには慣れていると思っていましたが、全く違っていたことに
驚愕しありふれた言葉ですが「死ぬかと思いました」
 翌日になると少しは痛みが、薄れましたが、相変わらず何も食べることはできませんでした。
 点滴から栄養を取っているせいか、余り空腹は感じませんでしたが、喉 の痛みは三日間続きました。

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格闘作家  重松 榮
こんな、駄文を読んでくださり貴方は仏様ですか?