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これまでの、まとめ(回想録)

2021年5月 軽度の脳梗塞が発症して検査入院した際、肝臓細胞癌が見つかりました。癌に罹って一番最初に考えたのは、後どれくらい生きられるのかという残された時間です。
 自分は江戸川区の西葛西という今では、インドの町として有名になってしまった地域で小さな空手道場を経営する武道家です。

 少ないながら真摯に武道と向き合う弟子たちと日々稽古をし趣味で小説なども書いていました。

 還暦を超え、まだまだこれから武道の達人を目指して修行を積んでいたところ、突然の癌宣告。

 命の残り時間を突きつけられたような、想いに駆られました。

再婚してできた子供はまだ小学校六年生、決して裕福ではない状況の中、バレリーナ目指して毎日頑張っております。

少しでもこの子の為に生きていたい、そう考えながらの二年間でした。

 思えば自分の周りでも、多くの格闘技関係者が癌で亡くなっております。自分が行っているフルコンタクト空手の神様であり極真空手創始者の大山倍達総裁も、肺癌でその生涯を終えられていますし、キックボクシングのとあるジムで、一緒に練習させて頂いた総合格闘家の山本キッド徳郁さんも胃癌からの臓器不全で亡くなっています。また近いところでは、主催大会のも参加させて頂いた「大道塾」の人間機関車、東 孝先生が胃癌で亡くなり、柔道オリンピック金メダリストの古賀稔彦さんも癌で亡くなっています。

 そうした超人とも言える人達も克服できなかった病気に三流選手の自分が勝てるはずがないと落ち込みました。

 また自分は、大切な弟子を癌で無くしています。

まだ、50代前半だった門下生Sさんは、大腸癌に罹り、当時ベストセラーとなっていた「患者よ癌と闘うな」という書籍に感化され

一切の科学療法を拒絶しました。半年もしないうちに元気だったSさんは、みるみる痩せていき、最後は別人のようになって無くなってしまいました。

 この文章は、この二年間、癌に罹ったときの状況から、今に到る寛解まで(2023年8月現在 癌は殆ど消滅している)何を思い何を実践して、どのようになっていったかの記録であります。

全人口の2人に1人が癌に罹るという現代、100万人の癌患者がおり、統計的に肝臓癌の罹患は第5位、死亡順位も第5位です。

ここからは今後どの様な状態になるかは、神のみぞ知るわけですが、仮にも今現在、元気に生きていられたことに感謝して、何が癌に効いたのか、また何が癌になった原因なのか考察して参ります。

 元より自分は医学の知識もなく、特別な治療を受けたわけでもありません、あくまで自分が、実践し実感した体験をお伝えし、今も癌治療をされている方の参考になれば、これほどの喜びはありません。

 記事は随時更新させていただきます。
物事には必ず始まりがあります それは癌闘病も、まずは医師からの宣告から始まります。

かつて癌は不治の病でした、故に宣告をすると患者は著しく生命力を奪われ、みるみるうちに衰退してしまうことが常識的にあったと思います、故にまず家族に確認をして、本人に伝えるべきか否かを知る必要がありました。

現代では癌はかなりの確率で治る(もしくは寛解)可能性のある病気となりました。

なので闘病の覚悟を決めさせるためにも、宣告することが多いようです。

自分は、地元の病院に違う検査で見つかりました、実は50歳の時に糖尿病からの脳梗塞が発症し、その病院に入院したことがあります、当時は空手の弟子だった方が、その病院の女医さんをされており、適切なる判断の元、安静、迅速なる投薬のおかげでなんの、後遺症もなく無事に退院しました。60歳になり、再び同じような症状(手足のしびれ、顔面の麻痺、言語障害)が見られ同じ病院に行ったところ、やはり軽度の脳梗塞でした。
まぁ少し安静にしていれば、今回も何とか無事に帰れるだろうと思っていたところ検査のCTに影が見えるということで、再度MR検査をしたところ、癌が見つかりました。

 突然、主治医のドクターがCT検査画像を持って、個室に駆け付け「重松さん、単刀直入に申し上げます、肝臓細胞癌です」と宣告されました。その時は「あぁ、とうとう来たか」という感じで受け止めたのを覚えております。

 なぜかというと、30代の半ばごろ、自分は海外で試合をして、その時の傷から感染をしたのか、帰国後、2ヶ月目に肝臓障害を起こしC型ウィルス性肝炎と診断されたからです。顔が真っ黒になり、眼は真っ黄色、まるでゾンビのような様相になりました。

 当時はまだ、肝炎ウィルスの治療が解明されておらず、感染症とされて、個室に閉じ込められ、外出禁止、食事も1回づつ捨てるプラ容器でさせられました。現在では、エプクルーサー配合錠という新薬が開発され1日1回1錠を12週間毎日服用すればそれだけで肝炎ウィルスを消せるように、なりました。自分も今回の癌治療ではこの薬を毎日服用しC型肝炎ウィルスを完全に消し去ることに成功しました。この新薬は一錠8万円近くする高額な薬のため、一度には配布されず何度かに別けて、受け取りました。

単純計算しても80000円×12週間(84)=6720000円となり高級車一台買えてしまうような金額になります。

 東京都には高額治療費控除という大変にありがたい制度があり月に8万数千円で数百万円の治療費が賄えてしまいます。

しかし、これほどの高額治療費を払い、苦しみ辛い思いをする病気には、罹らないことが一番大切なことでしょう。

話が横道に反れてしまいました、「癌の宣告」これは永遠のテーマでしょう。例えば人に寿命があり、神様から「君はあと三ヶ月で交通事故に遭って死ぬよ」と宣告された場合、人はどのように残りの三ヶ月を過ごすことでしょうか?

そして、そのような宣告をされたほうがいいのか、それともそんな事は知らないほうが、いいのか?

 自分は、知らされたほうが良いのではと考えます。とある本に「死ぬのなら癌が一番良い」とありました。

交通事故や不慮な事故、心筋梗塞や脳疾患などの突然死は死ぬまでの猶予がありません。

やり残したこと、死ぬための準備が全くできない死に方は本人もまた、家族も多くの後悔を残します。

自分も数年前、元気で稽古に励んでいる塾生がクモ膜下出血で亡くなるという悲しい思い出があります。

誰よりも可愛がっていた高校生の息子さんがおり、その息子さんから電話をもらい泣きながら「早過ぎます」と言われたことは一生忘れることはできません。そうした意味でも、癌宣告は闘う準備をする宣戦布告であると自分は考えます。

 しかし、自分が癌で治療を受け、入院先は癌センターであったので、多くの癌患者をみじかに観察していました。

それまで、高慢的などこかの富裕層と思える紳士が、癌と宣告をされたのか狼狽し怒りとも恐怖とも知れない表情に変貌する姿を何度か眼にしました。自分が見てきた限りでは、女性より男性、子供より大人、穏やかな性格の人より一件傲慢な感じの人が、宣告をされると狼狽してしまうような印象を受けました。

いろんな、考え方があるでしょうが、やはり自分が一番と思い、人のことなどどうでも良いと考える身勝手な人のほうがいざとなると、弱く女々しくなるような気がしてなりません。いずれにしても癌宣告を余命宣告と受け取り自暴自棄になるよりも冷静に今の状況を判断して、決して人に任せるのではなく、自分で癌と闘う気概と勇気を持つことが、癌に打ち勝つまず最初の戦いではないでしょうか。
医療の専門知識を持たれたドクターは病人にとって神にも似たような存在です

自分の運命がこの目の前にいるドクターに握られていると思うのは、長い人生経験の上で当然の想いでしょう。その人の一言一句はまさに神からの訓示なのです。

多少、医学の知識があったとしても目の前にいる専門職の医師には逆らえません。

かつて自分が脳梗塞を経験した時、今までどんなに、試合でボコボコにされようとも絶対に乗らなかった車椅子に初めて乗せられました。(自分は病院まで全速力で走ってきたのにも関わらずです)C型肝炎で発病した時も、元気だけは有り余っていて、無駄に食欲も性欲もあったのですが三ヶ月間、個室に閉じ込められました。その時の医師が言われた「あなたは今の段階で30%は死ぬかも知れないのですよ」という言葉は忘れられません。

 故に信頼しているドクターからの余命宣言、または癌の告知はややもすると、死刑宣告のような気がしてきてしまいます。残念ながら初めて癌を告知された時、その医師の顔には「あーあーやっちゃた」みたいな「仕方がないですね」のような「これまでですね」みたいな表情が読み取れてしまいました。

(あくまで、個人の感想です、その時の医師を誹謗するものではありません)

それまで元気に気を張って生きてきた自分の人生が全否定されてしまうような錯覚に陥りました。

今から思えば、その時から自分の癌との戦いは始っていたのであろうと思います。
 癌の宣告から2週間が経ちました。宣告をされてから、
1番感情が揺れ動くのが2週間らしいです。

その間、ちょうどゴールデンウィークであったので、道場はお休みでした。

(自分は。2000年5月より、それまで仕事であったサラリーマンを辞めて、カラテ道場の経営を行っていました)近所にある森山内科脳神経外科の病院に入院していたのですが、外出許可をとって

これまた、側にある都立宇喜田公園を愛犬の「ひろ」を連れて散歩をしていました。

この犬は娘が空手の試合(極真拳武会の廣重杯)に優勝したご褒美としてお母さんに買ってもらったので

「ひろ」と名付けられていました。娘の栄麻はまだ、小学校5年生、この子の小学校卒業式や中学校の入学式にも立ち会うことは出来ないのかなと、落ち込んでいました。

自分は民生委員もやっているので、コロナ以前は毎年小中学校の入卒式には、必ず来賓として出席していました。

自分の大切な娘の式のも参加できないとは、なんと運のない奴だと自分の運命を呪いました。

主治医の先生のお話では肝臓細胞癌の大きさはかなり大きく12センチ以上ありました。

また、肝硬変が進んでいるので肝臓数値も悪く、故に手術で削除する手段は初めからありません。

そこで、肝臓塞栓術という肝臓の一部の血管を塞いで、がん細胞を叩く作戦を伝えられました。

もはや、それぐらいしか手の施しようがないのかと、半ば諦め主治医の先生に「あと、どのくらい生きられそうですか」と聞いてしまいました。主治医の先生は言葉を濁し「それは、これからの経過にもよるので‥・」と言われました。

 後から分かったのですが、うちの奥さんには、半年から一年といった寿命を伝えられと見たいです。

いよいよ、二日後に手術という時、都議会議員のU先生から着信がありました。

「重松さん、森山病院はとても優秀な病院ですが、脳外科が専攻なので、やはり癌専門の病院に行ったほうがいいのではないですか」

とアドバイスを受けました。この時に手術を受けていたら、どのようになったかはわかりませんが、自分は昔から胸に宿る感を頼りにしていた

傾向がありました。その感が、手術を受けてはいけないとはっきり浮かんだのを覚えています。

空手の試合で勝つとしっかり思った時は、必ず勝ったし、負けるかも知れないと思った時は、まずその通りになったものです。

まったくエビデンスのない話ですが、結果的には、やはり手術を思いとどまって良かったと思います。

その結果、駒込病院癌センターに治療を移しました。そこには肝臓癌専門とするK医師がいてくださり、とても良い診断を下して

いただきました。その前にも長くうちの道場に稽古に来て下った松栄塾初代師範の赤松ドクターよりメールでアドバイスをして頂きました。

それは「名医は数々いるけど、良医はあまり見かけない、良医とはともかく聞き上手なお医者さんなんです、患者の聞きたいことを遮らない、とことん、納得のいくまで話をして聞いて説明をしてくれるドクターが良医なのです」と教えていただきました。

 K先生も家族の構成、仕事の状況、現状の出来る治療法を細かく教えて下さいました。

コロナで医療体制が崩壊寸前になっていたような時期にこのようなドクターに巡り合わせていただいた様々なご縁に心から感謝しました。
前回、書きました提言(恐れ多くも)に様々なコメントをいただきました。

癌治療は、十人十色で、同じ形は一つもない、故にあなたが寛解になっても、そのアドバイスが人に通じるかはわからない、あなたのような日頃から鍛えていた人だから抗がん剤治療にも耐えられ元気に回復されたが、ほとんどの人はそのような超人的な体力を持ち合わせていない。

 確かにその通りだと思いました。であるのならば、このような駄文を書き連ねても無意味なのではと一時は筆を折ろうかと思いましたが、よくよく考えると、ネット上に溢れる癌寛解の情報を1番危険視していたのは当の自分でした、前にも少し書きましたが、もう10年以上前、弟子の1人を大腸癌で失いました。

親子で真剣に空手に励む、とても大切な生徒でした、夏の合宿にも参加して、みんなを纏めてくれるリーダー的な少年部のお父様で、闘病生活最後の頃、その息子さんと一緒に北海道の空手の試合に参加しました。

「お父さんを励ますのは、僕が頑張って試合で結果を出すことなので」と言い切った少年に、その日来賓として参加されていた、生きる超人と言われている倉本師範は「この子は本当に凄い子だ、たいしたもんだ」と激励をしていただきました。大会数日後、眠るように息を引き取られたSさんを忘れることが、できません。

 そのSさんは、化学治療を一切受けませんでした。読書家でがんに罹ってからも、ネット検索で様々な情報を探してその結論が、自己免疫自然治療でありました、お見舞いに行った人たちにも「癌は病気ではないのです、ただの老化現象故に人は様々な薬のよって殺されたんですよ」と確信を持って言っていました、当時の愛読書は「患者よ癌と戦うな」このNOTOの主題は「戦おう」です。この時の経験が、無意味な情報や金儲けに繋がるような治療方、果ては癌を治す壺や金の鉄棒、それら全く科学的根拠のない治療法で何人の人が亡くなって行ったのか。

 その経験と自らの体験を少しでも役立てていただけるならと、このNOTOを立ち上げました。

そうは、言っても自分自身まだまだ、闘病の身、いつ何時、どのような状況になるかは分かりませんが、今のところ

 生かされている命に感謝して、参考になるかも分からない文章を書き綴らせていただきます。
少し話を戻します C型肝炎ウィルスに感染して、発病した時、下町の個人病院に入院しました

そこには、やはり弟子であった兄弟のお母さんが、看護師をされていて、最初は浦安の順天堂病院で診断をされたのですが、入院の部屋がないとの理由で、その看護師さんのご紹介で入院をしました。

前にも書きましたが、当時の肝炎ウィルスの情報は、まだまだ未知の世界でありました。

入院して最初はC感染と言われたのですが、途中でB型だと診断されたり、肝炎ウィルスは感染症であると感染隔離病棟に入院されたりしました。(現代はかなり、情報が正確になり簡単に感染するものではないと診断される肝臓のドクターもおります)インターフェロンとか、特効薬もなく、ただ毎日栄養剤のようなキョウミネと言われる点滴をするだけの治療でした、毎日暇を持て余しスクワットを1000回やったり、腕立てを極限まで追い込んだりと

三ヶ月の入院で、身体を作ってしまったような治療体験でした。

その後に極真空手の大会で優勝したり、Kー1の準備段階であったカラテワールドカップなどに出場するなど選手として活躍した自分がまさか、自分が癌に罹るなど夢にも思いませんでした。

その時に一番お世話になるのが、松栄塾師範を担ってくださったA内科小児科院長先生でした。

 稽古の後、必ずキョウミネの注射をしてくださり、ウルソといった肝臓強化改善の薬を処方していただきました。

また、免疫力強化のために「アガリスク」というキノコの成分からとったサプリメントも勧めていただき、これのおかげで30年間も肝硬変が進まなかったと思っております。

このA先生は「肝臓は自分の専門外だから」と直接の診断はされませんでしたが、実によく話を聞いてくださる先生でした。

地元でも保険ない患者さんには、最低の医療費を請求されたり、どんなに遅くても子供が急患だと言われれば往診をしてくださる

まさに赤ひげ先生のようなドクターでした。この先生がいてくださったからこそ、還暦まで元気に暮らしていられたのだなと

心から感謝する30年でした。   まだ続きます

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格闘作家  重松 榮
こんな、駄文を読んでくださり貴方は仏様ですか?