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誰かの生きる意味になれたら


幸福論

人はどのように幸せを感じるのか。
空から降ってくるのか、はたまた地面から湧いて出てくるのか。
人は実体のない幸せを探し求め悩み苦しむ。
幸せは求めれば求めるほど苦しくなる。どうしようもないジレンマだ。

中身のない話はこの辺にして
実際に人間の”幸福感”とは何なのか。
「嫌われる勇気」によるとそれは”貢献感”らしい
人は誰かに、社会に、集団に貢献していると感じたとき幸せを感じる。
ただ他者への貢献を考えるとき自己犠牲をしてはいけない。自己犠牲から生まれる他者貢献は他者への依存につながる。
自分の幸福を他者にゆだねてはいけない…

生きる意味とは

別に病んでいるわけではない。健やかで健全な心の状態の時でも常々生きる意味を考えている。病んでいるときは言わずもがな

考えても分かるはずがない”生きる意味”を考える不毛な時間は嫌いじゃない。

たくさんの思考の中で浮かんでは消えていった”生きる意味”たち
悲しんでくれる人がいるから、まだやりたいことがたくさんあるから、なんだかんだ今が楽しいから…
すべて正しくて、すべて間違っている
ただなんとなくそんな気がする。
”生きる意味”を考え続けた結果一つだけわかったことがある。

”生きる意味”は毎日、毎時間、毎秒、変化していく。
その日の心の状態、体の状態、なんなら天気にだって左右されるかもしれない。雨の日はどうしようもなく死にたくなることだってある。

人と向き合う

誰かと仲良くなりたいと思ったときどうするだろうか。
理由はなんでもいい、かわいいから、かっこいいから、お金持ちだから。
不純な理由しか思いつかないが…
なんにしろ相手のことをもっと知りたい、話を聞きたいと思うのではないだろうか。
私はその感情が少しだけほかの人より強い。
人は自分に興味を持ってくれる人に惹かれる。誰かに認められたいから。

相手と真剣に向き合うことを考えたとき、あなたは話すという手段をとるだろうか。聞くという手段をとるだろうか。
おそらくどちらも必要なのだろう。聞く方が圧倒的に難しいが…

相手の話を聞き続けることは容易ではない。どうしても自分の話をしたくなってしまう。相手を自分の意見で染め上げたくなってしまう。

自分の話をねじ込もうとする、自分の意見を押し付けようとする態度は本当の意味で人と向き合っていると言えるのか。
人と向き合うことは人間関係の基本。簡単に見えるからこそ難しい。

誰かの生きる意味になれたら

たくさんの人と出会う中で、たくさんの思考を巡らせてきた。
そのなかで誰かの生きる意味になりたいという思いが強くなっていった。

立場は何だっていい、親友でも、友人でも、話を聞いてくれる人でも、恋人でも。

ただ生きるのがつらくなったとき話したいと思える相手であり続けたい。
あなたが生きることが私への最大の”貢献”だと叫び続けたい。
あなたの生きる意味でありたい。

これは決して自己犠牲ではない。

あとがき

どうしようもなく生きるのがつらくなることは誰にでもあることです。
そんなとき話したいと思える相手はいますか?

気づかないだけで意外と身近にいるのかもしれませんね。

もしあなたがつらいのなら、苦しいのなら遠慮なく私を頼ってください。
現実での私を知るあなたには返しきれないほどのたくさんの恩があります。

最後に
何もなかった僕に”生きる意味”をくれてありがとう。
あなたの存在は今僕が”生きる意味”です。


これはほかの誰でもないあなたに向けたメッセージ


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