大森靖子の歌詞

大森靖子は良い。歌詞にパワーがある。5個選ぶ。紹介する。

1

幸せのイメージは描いた瞬間過去になる

みっくしゅじゅーちゅ/大森靖子

「幸せ」について考えて、そういえば特定のあの時が一番幸せだったなと考えたその瞬間に、「あの時」は1枚の写真になってその他の連続した思い出から切り取られて、「幸せ」からしか参照できない、たかがアルバムの1ページの1カットに収まってしまう。下に貼ったかわいいマスキングテープに「しあわせ♡」とでも書いて。
これは過去についてだけでもない。まだ経験していないことでも、何か、こうありたいなという幸せの形は、それを志向した瞬間に①実現せず切り取られもしない、あるいは②実現したその瞬間に切り取られて、アルバムの1枚になる、のどちらかが内定してしまう。まだ起こっていないことであっても、過去として思い返した時に「幸せ」のラベルでしか参照できないことが確定してしまう。たった1枚の写真に収まっていいような情景では、感情では、幸福ではなかった、なるはずがなかったはずなのに。

良い短歌には空白があり、読み手に想像させるというが、良い歌詞についてもそうだ。全てを言わない。解釈も限定しない。これからもそう。


2

Family name 同じ呪いで だからって光を諦めないよ

Family name/ZOC

ZOCは大森靖子が共犯者(主催)のアイドルグループでこの曲は大森靖子が書いている。

Family name は子の歌だ。それも母親と折り合いの悪い。「訳わかんないことでママが怒ってる」で始まり、「なんで産んだの」「その名前は二度ともう聞かずに生きていきたい」とAメロBメロでママを責める。受け継いでしまった苗字は呪いなのだ。ママがもとから持っていたものではないだろうに。

そこにきてのサビが引用部分。「同じ」呪いなのだ。ママが悪者で自分が加害されているのではなく、ママが背負ってしまった呪いを自分も悲しいかな受け継いでしまっている。ここに許しがある。いや、許しもある。わかっているよ。ママが私に意地悪したいだけじゃないこと。ママにも事情があるんだよね。

でも。だからって。「光を諦めない」。ママが諦めてしまった光を。自分だけは絶対になんとかしてやる。PVの終わりでは、夜明け前の街をそれぞれ走るメンバーが朝日の元に集合し、太陽に向かって叫ぶ。そこにママの姿はない。呪いを受け継いでしまっているが、不幸を受け継いでいるとは限らない。そう、苗字を同じにする親子が同じ人間ではないように。


3

ママと同じ名前の友達ができたの

Tiffany Tiffany/METAMUSE

Tiffany Tiffanyは神田沙也加への追悼歌だ。こんなオシャレで、そして、悲しい匂わせがあるかよ。そのことを示すとともに、彼女が偉大なママに苦しんでいたことを読み取ってしまう。それでいて、これは、たぶん、ママに向かっていっている。どんなに偉大でもママはママで、ママなのに社会的にも偉大で。好き、苦しい。苦しい、好き。

彼女のママと、大森靖子。ともにセイコであり、ともに歌姫であるのは偶然以外の何者でもなく、それをこんなにも格好良く、切なく、まとめられるものかと、ねぇ……

4

君が通ってきた全部の自動ドアは、私がぜーんぶ手動で開けてたんだよ♡

私は面白い絶対面白いたぶん/大森靖子

なにこれ?逆統合失調症?全部って2回言ってるし、何?

でも、考えてみてほしい。こんなに何を言ってるかわからないのに、明確な好意だけは伝わってくる。君が通ってきた、っていうのも良い。君が通ってこなかった、あるいは君以外の人が通った自動ドアは正規の理由でちゃんと開いていて、君が通ってきた自動ドアのみなんらかの摩訶不思議な力で自分が開けてきた。きっとこれからも自分が開けていく。それも手動で。何かの力で私が開けてたんじゃなく、私が、自らの手で、つまりは私が私のためにドアを開けるときと全く同じ動作でドアを開けてきた。

いつも見ている。いつも気にしている。自動ドアを通る頻度と同じくらいいつも。こんなことを言われたら自動ドアを通るたびに思い出してしまう。まったくわからないユーモアが全くわからないが故に好意だけが心に残る。
ここまでの歌詞と違って大森靖子が何を考えてこんな歌詞を書いたのかは本当にわからない。

5

嫌われたくない ひとりになりたい だけどさみしい 傷つかれたくない

VOID/大森靖子

これは代表的なもので、この歌詞がどうこうというものではないんだけど。
僕たちの苦しみには「自他の境界が曖昧であること」があると思っている。大切な人が傷つくことに傷ついているのか、大切な人と自分を同一視して、その痛みのフィードバックを受けているのか。これ自体は不可分なことに違いないけれど、あまりに自分と他人、僕と君の境界が曖昧だと、僕が君を傷つけてしまうと、君は僕であるので、僕が苦しい、みたいなことが起こってしまう。それが端的に、わかりやすく、共感する形で起こされていると思う。

いわば、ヤマアラシがお互いの棘で傷つくのが怖くて近づくことができない俗にいう「ヤマアラシのジレンマ」の状態にまで至れていない。自分に刺さっている棘が、僕のものなのか君のものなのかの区別もつかない。

そういう歌詞が大森靖子にはたくさんある。

これとか。

君が笑ったり 君が泣くのが私のことだなんて許せない

君に届くな/大森靖子


だから、「わかっている」んだと思う。自他の境界が曖昧だから、全ての君が僕の、私の一部みたいに見えてしまうこと。


終わりに

大森靖子は良い!僕は、この間まで、自分だけが、限られた僕たちだけが辛いんだと思っていて、でもどうやらそうではないらしくて、だから。
音楽は魔法ではない。でも、音楽は

(終わり)

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