ジャマイカ音楽#9(プリンス・バスター)
SKAの誕生には様々な要因があったことは間違いありません。前回に名前を挙げたプリンス・バスターは1959年に自らもサウンドシステムは立ち上げたものの米国R&Bをかけている既にビッグなサウンドシステムであったトロージャンやコクソン・ダウンビートには太刀打ちできなかったようです。
実はプリンス・バスター、米国に出稼ぎ労働者に化けてR&Bのレコードを買い付け向かったのですが、入国審査で止められて米国に入国できなかったそうです。これはライバルのサウンドシステムからレコード買い付けに来ていることがリークされていて入国できなかったようです。ここまでしてライバルがレコードを入手することに圧力をかけていたようです。このサウンドシステム間の抗争はこの先も様々なかたちで続いていきます。
レコードを手に入れられなかったバスターはそれに対抗するサウンドを作ることを模索し、2・4拍目を強調したSKAのリズムを考案したとも言われています。まさにDIY精神です。SKAをR&Bに取って代わるものとしてライバルサウンドシステムに勝負に出たのです。
現在イメージできるSKAの形を作ったのはプリンス・バスターが最重要人物であったことは間違いないと思います。同じサウンドシステムのオーナーであるデューク・リード、コクソン・ドットとの大きな違いはバスターはオーナーというだけではなくシンガーであったことです。
新しいサウンドを作っていく上で自分自身が歌っていることは理想のサウンドを作っていけたのではないでしょうか。ここが重要なポイントだったと思うのは僕だけでしょうか?Rocksteady期にはデューク・リードの説教入りなんてレコードもありますが、それとはレベルが違います。
SKAの話においてもコクソン・ドットの「Studio 1」があまりに有名なのが原因なのかはわかりませんが、Reggaeまで続くジャマイカ音楽史においてはプリンス・バスターは扱いが小さいなと感じています。次回もバスターの話をしていこうと思います。