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日本出版美術家連盟、のことなど その2

 フリーランスのイラストレーターであるあたしが、職能団体(一般社団法人日本出版美術家連盟)に所属している理由、そのメリットの続きです。

 「その1」の後半に書いたように、仕事上理不尽なことがあったときの抗議や改善の要求が、団体を通せば効果的に進められる、これは確かなことです。
 個人では対応しにくい盗作問題やクライアントとの契約問題など「なんかあったとき」に知恵を貸してもらえる、とも書きました。これは団体そのものだけでなく、そこでお知り合いになった人たち(会員に限らず、会員が外に持っている人脈やら)からいいアドバイスをもらえることを含みます。
 参考資料の写真をどこまでそっくりに描いていいか?とか、時代考証のために必要な資料がどこにあるかとか、どれが信用できるかとか、情報交換する事柄は日々あるでしょう。
 
 だからメリットは何も知的財産権にくわしい弁護士さんに正しくたどり着けることだけに限りません。そんな必要はしょっちゅうあるわけじゃないし、あったら困るもんね。
 いや、実はそういう著作権がらみの裁判がさかんにあった時代は、そんなに遠い昔ではないのです。1960年代、70年代です。私たちのショーバイを成り立たせている著作権がちゃんと守られるようになったのは、「つい昨日」、先人が戦ってくれたからにほかなりません。法律があっても地位が低くて、破られまくり、だったのです。日本児童出版美術家連盟(童美連)の沿革を読むとそのあたりのことがわかります。

 もっと古くは、高名な画家/彫刻家で挿絵画家でもあった石井鶴三が、挿絵画集を出版したことで作家中里介山に訴えられた『大菩薩峠』事件が有名ですね。挿絵は小説あってのものだから、小説の複製である、などと言われ、画家の著作権を否定する作家の考え方が露出した昭和9年(1934年)の事件です。
 和解し、実質的に挿絵画家の勝訴となりました。しかしこれはほんとの大家であったから個人でやれた偉業だったかもしれません。その後も長く、挿絵は仲間うちの”ほんとの絵(?)”から見下げられる立場にあったのですから。

 なーんてことをエラそうに書いてますけどそういう事への関心も知識も、あたしはJPALに所属してから得たものです。自分がこの仕事で食べてこられたのも、赤ん坊を育てられたのも、先人の戦いのおかげだったんだー、という実感と感謝を持つようになりました。
 当然の権利を主張してさえ、いやがらせを受けて仕事を干されるような低い地位だった商業美術家は、その社会的地位を高める(と言ってもそんなに高まってはいないかもですが、もっともっと低かったのです)プロセスで犠牲を払ってきたわけで。弱い立場の者たちが生きてゆくために集まったのが団体、という背景があると考えます。 

 さて日本出版美術家連盟は今年で70周年になる、日本で一番古いイラストレーターの団体だそうです。昭和23年(1948年)設立だそうで。すげー。
 ほとんどの他の団体は、ここから枝分かれしていったものだそうです。子供の本の絵を描く人たちや、教科書や辞典の正確な絵を描くひとたち、広告美術を手掛けるひとたちなど。それはこの仕事の確立と多様化の歴史そのものだと思います。複数の団体にまたがって所属する人もいらっしゃいます。

 ここで一見いきなり話が飛ぶんですが(ほんとは飛んでない)。同業の方々、あなたは例えばまとまって入る印税収入やらでかいプロジェクトで急に収入が膨らんだ時、どういう手を打ちますか?
 つづく。

 

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SYNDI
おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。