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「面白い」駄文を試みる:6

●変わってないひとなんていない

 展覧会に来てくれた同世代の従姉妹たちは二人ともとってもまともで、気持ちのいい人たちです。あたしみたいに就職しないでイラストやら雑文やらかいて暮らすだなんて、はみ出たことはしてきていません。大変安定感があります。 


 たぶんこういう組み合わせの場合、たとえば親戚の中に、あたしみたいなのがたまにはいて(あんまりたくさんいるのは困るけど)、そのたまにいる奴に関しては、はみ出ればはみ出るほど、彼女たちには面白いのかもしれません。そのはずです。ちょっと、人の不幸は蜜の味的な意味でも、はみ出しや不安定がヒトゴトである限り、面白いっちゃ面白いでしょう。

 と言ってもあたしは基本おとなしめで、高校時代に8回家出して警察にお世話になって連れ戻されたとか、4回結婚してそのつど子供産んで全部別れた男のところに置いてきたとか、絵が気に入られて言葉の通じないイランの大金持ちに求婚されたことがあるとか、ストーカーに追いかけられているからスーパーにいくときも変装するんだ、とかそう言う面白い話は一切ないんですけどね。地味でごめんよ。(この中にそれに近い体験は二つぐらい含まれているか?もしかして)

 あたしはこの世に「変わってないひとなんかいない」つまり、みんなどっか人とは絶対違うから、見る場所を変えればどの人も変人、という考え方を採用しているのですが、そういう相対的な価値観はおいといて、分かりやすく変わっている、っていうのも、たとえば”親戚世界”においては、一つの役割なんじゃないかと思うことがあります。
 そういう立ち位置にいても別にかまいません。イラストレーターのくせにそのぐらいのこと嫌がってどうする。

●あらかじめ恥ずかしい世界 

 絵描きさんなんかの世界にいますと、変わった人でいようと思ってもなかなか難しいです。「人と違うことが重要だ」というモノサシの中で暮らしますから、だいたいにおいて、自分が平凡でありきたりであることに対して常にイライラしていたりします。
 つまり「変わっていないひとなんかいないんだけど、変わり方が足りない気がする」わけですね。すでにして世間からはモノサシがずれていますが、それはしょうがないですね。
  
 とにかく、本物のユニークさを持ってモノを作っている人が歴史上いくらでもいますから、そしてそういう人は人の基準も気にしちゃいませんから、その中で珍奇を気取ってみてもたかが知れております。結局100パーセント自前の自分で、腹の底からモノを作るしかないのです。
  
 腹の中に平凡なものや勘違いがつまっていたり、今まで食べてきたものに、誰かの影響が色濃くあったりなかったり、その影響の消化の仕方にお間違いが隠れていたりする事に関しても、もうバレバレ。ごまかしなんかきかないし、ごまかしはそもそも意味がない。


 そういう、恥ずかしいけど自前のモノを、「ごめんなさいねこんなんで」といって裸のまま晒す、表現という仕事にはそういう部分があります。晒してなんぼ。晒さないで面白くあろうなんてのはムシがよすぎますね。

 もうあらかじめ恥ずかしいわけで、やっていると自然と大胆なものが身に付きます。そしてこの世界では、大胆ということすらがふつうだし、平凡なのでしょう。
 
 そういう大胆さというのは見かけにもちょっと滲み出してきます。
 手元に去年の忘年会の写真があって、あたしは派手ないでたちのふたりの女性と一緒に、エルトン・ジョン的ないささかへんちくりんなサングラスをかけて写っています。
 片方の女性はつけまつげを目のまわりの上にも下にもつけて、さらにサングラスをして、ほっかむりをして、和服を着ています。片方の女性は実は女性ではなくて大柄な男性ですが、この日はつけまつげを5~6枚重ねており、口紅は紅色じゃなくて水色だったし、長い縦ロールの金髪(のカツラ)はクリスマスツリーみたいに電飾で飾られていました。(電源はどこにあったんだろう?)

 その写真を見て、当時高校生だった娘が、「何これ、ヨシコがふつうに見える」と言いました。
 なんですと?それでは君には見慣れまくったこの母が、フツーじゃあなく見えていたんですかね?

 そりゃあたしは髪の毛つんつんに短くて金髪ですけど、見なれりゃどうってことなかろうと思います。服装だってちょこっと変なだけです。中学のPTAにはヘソ出しルックで行事に来たお母さんとかいたじゃんか。年齢が違うか。あははは。

 だけど、娘は同級生なんかに、「お母さん金髪だよね。面白いね」とか言われたりはしているみたいです。そこで見慣れたものへのモノサシを修正されるんでしょうね。

 まあ田舎の半端な進学校のPTAにはこんな髪の人はみかけません。だけどきっと偏差値の意味がわかってないぐらいの偏差値の学校とか、逆に芸能人がPTAにいるようなハイソな学校とかにいけば、いるんじゃね?親子で金髪とかもありじゃね?とか自分は思っております。

●保守とは現状の肯定であるからして

 あたし自身は見かけでもなんでも、あえて変わっていようとも思わないし、いわゆるふつうでいなきゃとも思いません。目立とうとも思いません。(これはたまには思うか)
 金髪も、今となってはそれしか色をおもいつかないんでそうなっているだけです。つまり保守ね。

 そんなことを考えている暇も余裕もないのです。ここに書いている、言葉の粒だちのひとつひとつについて「ああ、こんな平凡なこと書いていやがっていいんかいな?自分?」と考えることに忙しいのです。

 派手ないでたちの女性のうちのひとりがあたしにききました。「こんな金髪だと道で絡まれたりしませんか?」 
 「しないよ」
 たぶん彼女は絡まれるんでしょう。だからそんな質問をしたのだと思います。

 「あなたはいつもほっかむりをしているんですか?」あたしは質問をしました。 
 「はい。スタイルなのです」
  
 舞台の扮装かなにかのように独自のスタイルです。それにまだ若い女性ですから、絡まれたってしかたがないですね。ピリオド。

  しかし彼女はたぶん自分がどのぐらい目立っているか計算する感覚すらないのだなと思いました。ただただ好きな格好を採用しているだけなのでしょう。そしてそれを「スタイル」と定義して肯定している。
  
 電飾で水色の唇の人に関しては絡まれても当然と思うのか、彼女は質問していませんでした。

  そのあたりの話を、写真を見せながら娘に語ってみました。
 「ほっかむりには金髪のこと言う資格はないよね」娘は言いました。
 「ないね」
 「電飾のほうは絡まれないと思う」
 「なんで」
 「こわいから」

 なるほど。あたしもたまにはモノサシを修正しないといけません。
 修正はするが、しかし自分はおいそれと変わりゃしない。まあたいがい保守的と思いますよ。

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おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。