病院内でいきなりミニコンサートをさせてもらった話 後編
ささやかな日常の再現
母のいた緩和ケア病棟で、弟とあたしで短いコンサートをしたという話のつづき。
音楽が始まると人が次々集まってきて、デイルームは賑やかになりました。
いつもお話が止まらなくなる奥さんも、歩行器を付けた旦那様と一緒に出てきてにこにこしていました。とても音楽がお好きなのだと話していたのです。
偶然母のお見舞いに来たかたがたにも聴いてもらうことができました。
あたしの育った家ではそんな風に弟のピアノ伴奏であたしが歌を歌うことが日常だった時期があります。中学生の頃、しばらく遊び半分で声楽を習っていたので、2人で練習をしてました。
弟は実際は、課題練習以外の伴奏に付き合うのは「やなこった」ってな感じでしたがね。(思春期の少年なんてそんなものでしょ)
家には音大生が下宿していた時期もあり、あたしたちはほんとによくピアノとか歌とかで「遊んで」ました。
「音楽室」と呼ばれるピアノのある部屋は防音もしてあったので、他の音大生も家に来て、泊まり込んで、夜中まで遊んだものです。
そういう家でした。まあちょっと特殊だよね。
特殊だけど、きょうだいがいっしょに演奏するのは、母にとっては特別というより、非常に懐かしい光景だったと思うのです。何十年かぶりのことでした。
看護師さんたちが記録も撮ってくれた
看護師さんに写真を頼もうと思って自分のipad miniを渡してあったんですが、若い看護師さんが独自判断(?)で動画を撮ったらしく、戻ってきた時、それにはプロフェッショナルな弟のピアノと、あたしの「寝起きの声」による歌が記録されておりました。がーん。
冷や汗が出そうなもんだけど、その動画があとで、その場に来られなかった友人のために役に立ちました。
何せ母の体調を考慮して日程をいきなり繰り上げたのですから。
母は大きな動きをすることはできず、あまりベッドをギャッジアップすることもしませんでしたから、子供たちの姿をよく見るということはなかったでしょうが、目を閉じてリズムに合せて手を動かしていた。
『ワセダの栄光』の時には一緒に小さな声で歌っていました。ワセダの歌にお約束の、ワセダを連呼するだけの、(部外者には少々恥ずかしい?)歌詞の部分です。
何なんでしょうね?あれって。母校の名を連呼するだけで幸せになれるってすんごいことだわ。わはははは。(褒めてません)
そんな、ふだんならからかいの的になる事も、こんな時には「素晴らしい!」わけですよ。
母校名連呼以外の部分はなかなか難しいのですが、案の定あたしはよくわからなくなり、あからさまにごまかしてましたら、母は笑っておりました。
笑うとか、そういうことができるだけで貴重な時間なわけです。
それができる「体調」であることがまた大切な時間で、「いつかやりましょう」とか「また今度」とかが無いかもしれない日々に、すでに入ってました。
病棟に入ったばかりの時は、リクライニングタイプの車いすを使えるようになることなどを「目標」にしてました。
ベッドの上でできるリハビリもしましょうね、などと話しておりました。 料理に文句を言いつつも食べられていたし、声はしっかりしてましたから。体調が上向くことが十分イメージできていたのです。
ある程度の自由が許されるので、たとえ車いすが無理でも、ストレッチャーに乗せて一度家まで連れて帰り、家のグランドピアノで良く知った人達に順番に演奏してもらうことなど相談していました。
うちのピアノを弾いて育った人はたくさんいます。弟とあたしは、その思いつきの実現を切望してました。
でも、「予定」や「つもり」は音も立てずになかったことにされてゆきました。クスリを増やしたわけでもないのに増やした時のような症状が出て、母の反応が非常に鈍くなった日が境目だったと思います。
ずっと前向きだった
でも体調は持ち直しました。せめてデイルームではやろうと言っていたのを繰り上げたのはそのタイミングです。
元気のある頃、母に、「家にピアノを聴きに帰ろうよ。むっちゃんもサナエちゃんもシノブちゃんも呼んで弾いてもらおう。あたしは歌うし(←実はピアノが弾きたくない)。そうやって遊ぼうよ」と言ったことがあります。
その時は母「そんな、外出なんかして、風邪でもひいたら大変だから帰らなくてもいい」と答えました。
それは後ろ向きというよりも、用心深く自分を守る、意欲のある言葉だとあたしは思いました。
これは母の家のピアノ。何人もの人がこれで練習したり、レッスンを受けたり、遊んだりしました。
おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。