「面白い」駄文を試みる:4
●書かれる立場
書き手や読む人が面白いと思うことでも、書かれた方はたまったもんじゃない、ってことは、いくらでもあります。いやむしろ、書いている本人も、いつだって「たまったもんじゃない」、という感覚をどこかに持っているんじゃないでしょうか。それでも書くしかないってところが、物書きにはあります。全く因果なものです。
小説家の家族が、「アイツの作品の中に自分や知った人に似た人間がうろうろするのがたまらなく嫌」と言ってたり(だったら読まなきゃいいのに)、エッセイストの親戚が「あの人はそもそも大嘘つきだから」と言っていたりします。
自分の恋愛や結婚をのろけにのろけた本を売っておきながら、見事に崩れて見せる作家もいます。もちろん崩れたくなんかなかったでしょうけれども、そしてもちろん崩れる必要なんかない。読者にワイドショー的な楽しみを与える義務などないのです。
●崩れることも書き手の才能
しかしその人はおそらく、そうした破綻の可能性も含めた感性を売ってきたのでしょう。極限まで舞い上がった自分を書いてしまえる人は、そういう高揚感に満ちた物語を創り上げることもできます。それは歓迎される才能なのです。
そりゃ書けないでいる人より平穏無事からは遠ざかるでしょう。高いところにある狭い足場の上で、両手を広げてバンザイをするようなことなのですから。
そうして、安定を失って落っこちてゆく人のことを、また違う感性の作家がちょっと皮肉って書いたりすると、読者は溜飲を下げるし、ハラハラもする。そんな人のコトなんか言えないような奴が言ってくれちゃってる、と笑うことができます。
そういうことの全体に、「面白いこと」は編みこまれてゆきます。読者でいるかぎり、自分は傷つかず、面白いことをながめては、感情を揺らすことができます。
フィクションのなかにすら、現実の個人に対する皮肉や批判を読み出す人もいるでしょう。そういう発見もたぶんとても面白いことです。
でも、読むだけではなくて、書いたり書かれたりすると、その平和はちょちょんと簡単に破られる可能性があります。でも、破られてみたい気もするでしょう。
●モデルはそのことに気が付かない
とある児童文学作家が、あたしに言いました。有名な人です。
「童話というのは喩え話であるから、ほとんどモデルに悟られることはない」
「先生の本に、お姫様が出てくるおはなしがありますけれども、あれもモデルがあるのですか?みんなあのお姫様が大好きですよ」
「ある、とも言える。解体されたり合成されたりしているけれども、あれはわたしの好きな人だったりする。とにかくあったことをそのまま書いたりしない」
「あのおはなしに出てくるネズミとか、海賊とか、オウムとかにもモデルが?」
「誰も自分だと気がつかないけれども、会った人たちが出てくることがある。君たちと話をしているだけで色々と気がつく。そしてたぶんいつかそのうち、例えばYという女に似た登場人物が自然に出てくる。でも本人にもそれはわからないはずだ。楽しくて仕方がないよ」
Yというのは、その席に一緒に居た女性で、あたしの友人でした。
「Yさんがお姫様が、ネズミか、オウムか、海賊か、何になるのか誰にもわからないのですね?」
「私は言わないから、わからないよ」
「秘密ってわけですか」
「秘密ですよ。ざまあみろ」
彼はまた別の時に言いました。
「君たちはおとなしいよね。普通モノを書きたいなんて人たちはなかなか激しい質問をするよ」
「どんなことですか?」
「自分がモデルにした人物に対してどのように接するかとかね」
「本を出さないうちから?」
「そうですよ。お礼をしておくべきか、だなんてことを聞く人もいましたよ。すごいでしょう」
「お礼ですか。モデル料?それともアイディア料かな」
「さあ。とにかく大変な自意識ですよ」
あたしなら、たとえば「今度のおはなしにあんたのこと書きたいのよ。いい?いくらか払っておくから」なーんて言われても、ピンとこないでしょう。あんたなんかにあたしのことはわからないわよ、だから描ききれないわよ、と思いながら、「どうぞ。お礼も、あたしにそんな許可とるのも不要です。お書きください。お手並み拝見」と言ってしまうにちがいないです。
おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。