自己肯定感というBuzword:その13
自己肯定感シリーズ、今までのまとめ
棚卸しみたいな作業で、主に自分のためなんですけど、もう少し書いてみます。まず、今までのまとめ。
自分の生い立ちの中で自己肯定感に影響してきた四大成分、すなわち
●音楽
●フツーのお勉強
●努力問題
●容姿コンプレックス問題
・・・・この4つのうち、「その8」(うちにはピアノが2台あった)では音楽のお話をしました。能力問題にはその家独特の事情があるが、我が家は音楽が必須でしたって話です。
ふたつめ、フツーのお勉強については、親が学習塾を経営していた、という環境ごと、ややしつこく詳しく書いてます。お勉強はさらに必須だったからです。
自分の記憶が改竄されていて、現実よりも成績がよかったかのように記憶していた、という話。(「その4」「その5」)
それからもし仮にもっと勉強ができなかったなら、我が家の環境ではけっこう悲惨であったに違いないという話。(「その9」「その10」)
みっつめの努力問題・・・・我が家にはいわゆる三日坊主はいないことになっていた、って話。努力しない異分子で、しかし才能があった伯父のことなど書いてます。(「その11」「その12」)
結局努力の礼賛になってしまうが、それでOK?
たまたま育ったところの事情により、音楽が価値観の骨格を作ったわけですが、さて、音楽にとってエッセンシャルなものがあるとすれば、そりゃもうあなた、「努力」だよね。それっきゃない。
そもそも音楽って練習です。繰り返しと自己修正の連続です。三日坊主では楽器なんかできるようにもなりません。できるようにならなかったら好きもなければ楽しいもない。
お勉強も、よほど地頭に恵まれた人でもない限り、成績なんてものはまじめさの反映でしょう。(しつこいようですが、学問ではなくてタダのフツーの勉強のことよ)
努力家というのは、それ自体大変な美質であるし、結果として自分に誇りを持つなにがしかの有利を手に入れることが多いのじゃないでしょうか。
自己肯定感の要諦として、「そのままの君でいいんだよ」的な非常に広い器の中に包まれる感覚が必要なのですが、しかし現実には、さまざま能力があることが必要で、それらは結局努力の多寡に帰結する、とあたしは思うのです。
おそらく、「そのままの君でいいんだよ」という幼児時代の万能感が、その後の努力を支える、というのが、いわゆる健康な人間の生い立ちってもんなんだろうな、と考えます。
その「そのままの君でいいんだよ」が何らかの理由で毀損された生い立ちの場合、すんなりとは行かない中で肯定感を補完してゆくことになる。
そのバリエーションが人間の個性なんだろうと思います。
で。あたしの場合、生まれた家の中で、相対的にナマケモノで、相対的に三日坊主的であったために、特に弟と比べられたりしていやーんな思いもしていましたが、ざっくり人生初期の20年ぐらいを考えた場合、「得をした」のじゃないかと思うのです。
家族やらピアノ関係の人たちにナマケモノナマケモノと言われ続けましたけども、世の中に出たらあたしなんかまじめなほうじゃん!けっこう勤勉じゃん!という発見がありました。
つまり我が家のスタンダードが高かったために、それが”大リーグ養成ギプス”(この単語、令和時代にどのぐらいの人に通じるんだろう?)のように機能して、知らず知らずに真面目勤勉風の生活をしていたと思われ、結果いろんなもんが身についた気がいたします。
世の中は間違いなく能力主義で、それが正義ですから、何かが身についた人の方が、肯定的なメッセージを受け取る機会は多くなります。それだけ肯定感を自分で育てる条件が有利になるでしょう。
間違った努力ってのがある
ただし、努力も、してりゃあいいってもんではないのです。それは、長いこと日本で人間をやってきて、身にしみて思っていることでもあります。
ことに、制作創作が絡んだ職業を選びましたから、才能の差という残酷なまでの条件があります。
実のところ、才能は努力を免責してはくれません。むしろ逆かもしれません。でも、才能の差って、努力が適切な場所で適切になされていることでもあるんだよね。
才能のある人は無駄な努力をしないのです。無駄じゃない努力を血眼でやるんですよね。
「間違った努力ってのがある」というのは、私の師匠の言葉です。あなたが何かを成したときに、努力のたまものだ、と人に言われたら、それを疑いなさい、とも言われました。それは本当か?と。
残念ながら師匠が言うような「何かを成す」という課題はまだ果たされてはおらず、またそれにはもちろん、全くもちろんもれなく間違いなく「努力」が必要なのですが、師匠はそれでも、「努力そのもの」をあんまり信じてはいけない、と教えたのです。
ほとんどの努力は報われず、しかし努力のないところにはあんまりいいこともない、ということを、もうあんまり若くない人なら知っていることでしょう。
それから、間違った方向に頑張る人というのがとても多い。間違った頑張り方をして、こんなに頑張ったのに、苦しんだのに、と失望する人がいる。
これは、創作という複雑怪奇なものに関わる言い方なのですっきりはっきり説明することは難しいけど、創作に限らず、努力して不幸な顔をする人を、だれでも見たことはあると思います。
師匠はそれを「間違った努力」と言っていたのです。
もちろん努力を否定しない。しかしそれは正しい方向でやらなかったらどれほど苦しいか、という教えだった気がします。
努力を理解できたら自分を肯定できるんだろうな
戦後に生まれて本当の戦争はないままに来ていますが、高度成長やらバブルの浮かれやら、それの崩壊やら、うんざりするほど長い不景気、地震や原発事故の中で子育てもしてきて、人間それ自体はめっちゃ無力じゃん、という厭世的な気分とともに、この努力問題の謎が、今更重くのしかかっています。
これがねー。つまり残る人生の課題なんだろうな。やり残しの宿題みたいなもんね。
若い時は努力が実りやすい時代を味わったし、努力する家族の中で勤勉に後を追っていたからトクもしたけど、それでもあたしは自分に不満です。
ポジティブなものをつかもうと思ってこんなものを書いているんだけど、でも、やっぱりそんなに簡単じゃないです。
これが、自己肯定感ってものが、とかく品質不安定だという証拠じゃないでしょうか?
たぶん、万人向きの自分の許し方なんてものはないんだろう、というのが結論なんだけど、どうでしょうね?
万人向けの努力の仕方も実はないのです。
生まれて育って色々引っかかって剥がれない自分の属性を鑑みた、自分用の努力の正しい方向が見えて、しかもそれをやっていけたときに、初めてがつんとした手応えがあるんだろうな、と今は思います。
そうなったときに自分は自己肯定感、ナニソレ?ってぐらいに、このBuzzWordから開放されるんでしょう。