自己肯定感というBuzzWordその12
2年かかることが45分でできる人
総じてコツコツ努力をする家族の中でドロップアウトしなかった理由の中に、困ったちゃんの伯父の存在があったって話のつづき。
伯父は父と同様、音楽が好きだったと思います。わたしたちがやっているピアノのおけいこにも一定の関心を持っていました。でも自分がなにか習っているとかそういうことはありません。もっぱら聴いているだけ、ということです。父は歌やらなにやら常に習っていたのですが。
伯父が良くも悪くも普通の人じゃないな、と思うことは何度もありましたが、とりわけ印象に残っているのは父が憧れていた楽器であるところのチェロを買った時です。買ったばかりで手に負えず、その時はまだ先生も見つけていなかったかもしれません。
伯父は我が家の”音楽室”(ピアノのある部屋)に遊びに来て、「おお、これがあいつが買ったチェロか」といい、いきなり調弦をはじめました。弦を弾いて、耳を寄せて、「高いか?低いか?まだ低いな」などといいながら。
あたしにピアノのキイを叩かせて、それを基準音にしていました。「高いか?低いか?」と尋ねはするけど、「ちょっと低い」とか、「あ、行き過ぎた」とか言うと、すぐにそれを調整し、音がぴったり合うと、「合った」と自分で言うのです。だからわからなくて私に訊いているのではないのです。伯父は音感がするどくて、父とはまるっきり違っていました。父はこの調弦にものすごく時間がかかったし、あたしの助けが無ければそれもできなかったのです。何という差だろう、と思いました。
そうやって4弦を調整すると、今度は弓を持って、いきなり「荒城の月」を弾き始めました。チェロなど触るのは生まれて初めてのはずですから、調弦にもボウイングにも若干の試行錯誤はありましたが、ほとんど見様見真似で、さしておかしなフォームにも見えず。音を聴くだけで指のポジションをきちきちと決めてゆきます。なにもかもあっという間でした。
伯父が弓を当てると、チェロは最初からヴォン、といい音を出しました。「荒城の月」がそれなりに形がつくまで、45分ぐらいだったでしょうか。あたしは本当にびっくりしました。
もっとも伯父はうんと若い時に、親にギターを買ってくれとねだって、買ってもらえなかったので、木を削ってそれを自作したことがあったそうです。自作、というのが尋常じゃないですが、弦楽器に経験があれば、全くそれをやったことがない父とは差がついて当たり前ではあります。いや、それにしたってカンがよすぎる。普段何もやってない中年のおじちゃんなんですよ(笑)。
「荒城の月」を45分で弾ききりましたが、伯父がそんなことをしたのはそれが最初で最後でした。その後一回もチェロを弾いたりしなかったと思います。一度で飽きちゃったんでしょうか?ちゃんとその曲に聞こえはしましたが、これがとんでもなく音楽的であるとか、忘れがたく素晴らしかったとかいうことはありません。まだまだ改良の余地はあったのですが。ああもったいない。
そういえばあたしが小学校中学年で高級なハモニカを買ってもらった時も(それはあたしがハモニカがとりわけ上手だったために父がプレゼントしてくれたのです)伯父はたった一度だけ吹いて聴かせてくれました。それが生涯初めて聴いたブルースハープだったと思います。ハモニカはこのように吹くのだ、と伯父はいいました。ほんとにそうだな、と今は思うが、しかしなぜ一度だけなんだろう?音楽とは繰り返しなのじゃないんだろうか?
もったいない話ですが伯父はこのように、決して高いところに登ろうとはしませんでした。あんなにたやすくできてしまうくせに。
ちなみに、父が「荒城の月」をそれなりに弾けるようになるまで、まるまる2年の月日がかかりました。(それだけをやっていたわけではないですけど)冗談抜きで、サボらずたゆまず、毎日少しずつ練習して、先生についてレッスンをうけながら、それだけかかったのです。えんえんと基礎練習をやらされて、ある程度の退屈をも耐えながら取り組んでいました。
父にとってはなにひとつたやすくできることはなく、だけど、ほんっとうに毎日弾いていたんですよ!傍で見ていると切ないほどの才能の差ですが、父はまるで気にしているふうではなかったです。
で。2年間の努力の末、父の出した結論は、「どうやら弦楽器は無理」ということでした。あたしもそう思いました。しかしその結論を「体感」するまで、あきらめないで2年はやってみる、というのが彼のすごいところだと思ったのです。時間かければいいってもんでもないですが、父の「荒城の月」は兄のそれより遥かに音楽的だったと思います。
モノになるとはどういうことか
その後父は自分に合った楽器にたどりつき、それはフルートだったのですが、その後死ぬまで、それを練習していました。先生をみつけてレッスンを楽しんでいました。何人かの人の結婚式でその腕を披露していました。10年をすぎる頃から、なかなか上手になってもいました。毎日わずかずつですが、ほんとに毎日練習していました。
すこしずつ上達するということが、どんなに楽しいか、楽しいけどいろいろチリチリと悩みの多いことか、楽器をやったことのある人は知っているでしょう。楽器に限らないよね。伯父はそういう努力を一切しなかったので、45分間の遊びが彼のチェロ体験のすべてでした。その他もしかしたらどんな楽器でもできたでしょうが、全部おそらくはアノ程度のところで止まるのですね。やらないのだから。
技術の巧拙のことを言っているわけではないです。表現が「自分とつながる」体験は、おそらく地味な練習、時には苦しい鍛錬の末に来る、人生でも最良のご褒美ではないでしょうか?そこまで来てやっと表現は勝ち負けでも優劣でも巧拙でもない次元に至るわけです。「モノになる」とは、そういうことなんだ、というのがあたしがこの「まじめさの家」で学んだことです。プロになれるかどうかなど、それはまた違うチャンネルの話です。表現は万人に開かれているんですから。
伯父には音楽に対する渇望や高度な表現に対する憧憬、自分の体でできる『じぶんなりの上達』を時間をかけて育むという態度はなかったのでしょうか?伯父のすべてを知っているわけではないから、わからないけど、伯父はやってはいなかったです。もしかしたら耳が良すぎて、審美眼もあって、鍛錬の道の長さがすぐに見えてしまい、ワリに合わないことなどするもんかと思っていたのかもしれません。
こんなもの、素人はどうせいつまで経っても素人だし、他人にとってはふたつの「荒城の月」に何の価値の違いもありゃしないでしょう。でもその中身は厳然と違う。体験の豊かさが違う。
そのような価値観を、あたしはこの「努力しない伯父」によっても教えられたと思ってます。伯父が不器用な不器用な父の音楽を、決して一度もけなさなかったことも、父がはなからあの兄のとんでもない器用さを羨んですらいなかったことも、あたしにとってはレッスンでした。
伯父が困ったちゃんであることはまた違う話なのですが、少し触れておきます。
「自作」したという例のギターで、伯父は彼の父親(あたしたちの祖父)の病の床の枕元で弾き語りをしていたというエピソードが残っています。歌っていたのは『親父死ね』という自作の歌だったそうです。
祖母は怒りのあまり伯父の名前を叫んで泡を吹いて倒れ、以来祖母も具合が悪くなったのだ、と一番上の伯母が語っていました。
祖父も祖母も早死にで、あたしは一度も会っていません。ずっとこの長男のことを心配しながら死んだと聞かされています。
(つづく)