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最期の病院生活

母が緩和ケア病棟に入るまで

 救急車で緊急搬送された病院で重篤な病巣が数々みつかり、結果的に「寝たきり」を余儀なくされてしまった母の話のつづき。

 物理的に言うなら、ついこの間まで歩いていたのですから、入院当初、母は自分の体を動かすことができました。

 筋肉がまだあったという意味です。腕の力は強く、ベッドの柵につかまって体の向きを変えることもできたし、立つと左脚に力が入らないという症状は始まっていましたが、四肢の麻痺はなく、皮膚にも感覚はありました。

 つまり、脚を曲げ伸ばしすることも、腕を上げることもできました。枕を替える時に首を持ち上げていることもできます。

 もとより頭ははっきりしており、耳もとおくはないし、眼鏡も基本要らない人でした。食欲もありました。

 けれども「起き上がれるのに」起き上がってはいけない(背骨の圧迫骨折が起きたら危険だから)「立てるのに」立ってはいけない、全部において「できるのに」やってはいけない・・・・その生活は、当然、母の残っている筋肉その他を急速に衰えさせてゆきました

 背骨の病巣には放射線を10日間、照射しました。それは腫瘍(かもしれないもの)をたたくというより、痛みの軽減を期待してのことです。
 その間にできる範囲の検査として、内視鏡で内蔵の組織を取って調べました。

「犯人探し」はもうしない


 医者の見立ては、「胃癌」ができていて、それが背骨に骨転移して痛みが出ているのではないか、というものでした。

 胃癌というのは意外でした。でも癌の既往症があった大腸には異状はなし。
古い所からの転移再発ではなく、全く新しい癌ができていたわけです。


 組織検査の結果が示す悪性度は、強くもなく弱くもない、中程度であるとのことでした。

 仮にそれが転移したものなら、背中のものの悪性度も中程度ということになります。これが暴れれば浸潤して四肢の麻痺は(骨折などがなくても)やってくるかもしれない。

 でもわかりません。予想などつきませんでした。

 「今、普通に食べられているよね。食べられている限り胃癌のことは気にしないようにしよう」あたしは弟にいいました。

 犯人探しはどうでもいい。問題は痛みで、この痛みを取ってもらえるなら、原因は何もわからなくてもいい、と言いました。弟も賛成でした。


 方針が決まったら、気持ちは落ち着きました。腫瘍の正体を確かめなくても、とりあえず放射線を当てるという、病院のやり方にも賛成でした。検査も治療も老人の体力を奪ってまでやるものじゃありません。

 積極的な治療は本人を含めて誰も望まない事でした。悩むほどの選択肢もないのです。

 しかし、ここは急性期の病院です。「放射線治療が終わったらなるべく早く転院してください。転院先の病院を捜す相談に乗ります」と、弟は毎日のように言われたそうです。

知らなかった条件がいっぱい


 「緩和ケア病棟(PCU)」が、同じ病院にありました。骨癌は本当に痛い病気ですから、そこに入ることを希望するのが一番いい選択であるように思われました。

 緊急入院してから、神経内科、整形外科、消化器内科が関わり、緩和ケアの医師もチームに加わっておりました。

 その時点では消化器内科に転科し、主治医も変わっていましたが、緩和ケアが加わって鎮痛剤が医療系の麻薬に変わってから、母は劇的に「楽に」なっていました。

 痛いと何を考えることもできません。生きているのも嫌になります。痛みのコントロールが、QOLを保つのに、何よりも優先することでした。

 希望を出すためには本人が「理解」をして、サインをしなけりゃなりませんが、母はもう達観していました。「もうじき終わりが来る」ことの理解は難しいことではなかったです。


 しかしさてこの時点で、知らなかったことがいっぱいわかりました。

 まず、緩和ケアには、「認知症がある人は入れない」こと。

 したがって、ウェイティングリストに載せてもらえるかどうかの審査があること。

 載せてもらえても、待っている人の数は100をゆうに超えており、ベッドは20しかないことなどです。

 入れるまでどのぐらい待つかについて、1か月か2か月かはっきりしたことはわからないけれども、平均2か月ぐらいは待つことになる、という話でした。


 周辺の大きな病院でもそれは同様でした。おおざっぱに言って、地域全部合わせてもベッドの総数は60ぐらいしかない。そこに何百人もの人が常に希望を出しているわけです。

 緩和ケア病棟には、希望したからって簡単には入れないのでした。
 条件はさまざまでしょうが、優先順位のあり方はあたしたちの立場からは見えません。

選択肢はあんまりなかった

 さて、じゃあ入れるまでの間、母はどこにいればいいのか。

 長期療養型の病院なのか。受け入れ先はあるのか。
 しかし、医療系麻薬をちゃんと使える病院の選択肢は、そうは多くないのでした。

 わたしたちが比較的負担なく毎日通える場所という条件を加味すると、選べる病院はひとつかふたつ。いろいろ考えるとたったひとつか、というところにきました。


 ソーシャルワーカーに相談し、相手側の病院とも交渉して、弟が病院を訪問して確かめ、転院の日取りを決めようというところまで話は進みました。
 
 その時いたところは4人部屋でしたが、転院先では6人部屋になります。狭くて施設も古く、快適性やプライバシーは比べ物にはならない・・・・・・けれども、積極的な治療をしない患者は急性期の病院にいちゃいけないんですから、覚悟しないとなりません。

 10月のことでした。9月の入院以来、病室から出たことがない人を、ストレッチャーに乗せて車で運ばないとなりません。

「あたたかい、天気の良い日をえらぼうね」などと母と話をしていたのですが、そこに知らせが来ました。

 「緩和ケアの有料の部屋があくのだけれども、どうでしょうか?」と。

つづく。
 


おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。